東洋学園大学 史料室

  • ホーム
  • 年表
  • 業績/資料受け入れ
  • 月報
  • 『東洋学園八十年の歩み』
  • 『年表 東洋学園史」
  • フェニックス・モザイク
  • 「大学史展示コーナー」流山分室
  • リーフレット
  • 過去の催し・お知らせ
  • English

2009年度10月 月報

2008年度月報 2009年度月報 2010年度月報 2011年度月報 2012年度月報 2013年度月報 2014年度月報 2015年度月報 2016年度月報 2017年度月報 2018年度月報 2019年度月報
  • 4月
  • 5月
  • 6月
  • 7月
  • 8月
  • 9月
  • 10月
  • 11月
  • 12月
  • 1月
  • 2月
  • 3月

2009年10月3日日本歯科医史学会総会・学術大会

日本歯科医史学会学術大会に出席し、一般演題における発表(2席)を行いました。

第37回日本歯科医史学会総会並びに学術大会

会場:東京歯科大学水道橋校舎 血脇ホール

プログラム
http://www.jsdh.org/image/program.pdf

当日の模様
http://www.jsdh.org/blog/2009/10/36_1.html

演題

(1) 東洋学園における年史編纂の経緯と現状について
(2) 東洋女子歯科医学専門学校から東洋女子短期大学への転換期 -1945~1960-

(1)は2008年12月11日に行った第63回全国大学史資料協議会東日本部会研究会(会場:本学)における報告を基にして、新たな資料やその後の動向も踏まえ、本学会の発表制限時間に合わせて新たに書き起こしました。

(2)は本年2月20日の本学会第373回例会、5月15日の第376回例会で発表した内容を、同様に再構成したものです。

いずれも以前の発表で1時間以上の内容があったものを制限時分に納めるため、枝葉を削りつつ口演原稿とスライド(パワーポイント)に情報を分散させました。本来、口演と映写資料は一致していることが理想的ですが、演題(テーマ)の範囲が広いためこのような形をとりました。

2席とも本学会理事であり、日本歯科大学理事長兼学長の中原泉先生よりご質問を賜り、大変光栄なことと存じます。

発表の機会を与えて下さった学会理事長渋谷鉱先生(日本大学松戸歯学部歯科麻酔・生体管理学講座教授)、大会長石井拓男先生(東京歯科大学社会歯科学教授)、座長斎藤貞雄先生(学会理事)、事前抄録執筆から当日の発表方法までご指導下さった樋口輝雄先生(日本歯科大学新潟生命歯学部医の博物館)、学会事務局、資料を提供して下さった多くの東洋女子歯科医学専門学校OG、教員とそのご家族の皆様に御礼申し上げます。

本学関係者の方には見慣れた水道橋駅前。中央の東京歯科大学水道橋校舎は現在、本部と附属病院のみで、教育は千葉校舎(千葉市美浜区)で行われています。

同大学は歯科大学として最も長い歴史を持ちます。垂れ幕の写真は創立者の高山紀齋胸像をバックに継承者(建学者)の血脇守之助と野口英世。若き日の野口清作(英世)を物心両面に亘り援助したのが、(東歯の前身)高山歯科医学院幹事の血脇守之助でした。

会場。
特別講演「厚生省歯科衛生課創立60年を振り返る・歯科行政官の系譜」
宮武光吉鶴見大学教授(元東京歯科大学教授・厚生省歯科衛生課長)

2009年10月7・8日文京ミューズネット新規加入施設見学会

今秋、文の京ミュージアムネットワーク(文京ミューズネット)では加入各施設学芸担当者を対象に、平成20、21年度の新加入施設及び中核施設の一つである印刷博物館((株)凸版印刷)の見学会を、施設ごとに時期をずらして実施しています。

当史料室の受け入れは7・8日とし、7日には印刷博物館館長樺山紘一先生(東京大学文学部名誉教授)らのご見学がありました(8日は招かざる台風が来ました)。

前日の6日は印刷博物館の見学会で、企画展「近代教育をささえた教科書 東書文庫コレクションを中心として」と常設展示について、担当学芸員の方から詳細な展示解説がありました。当史料室でも展示している芥川龍之介編纂の教科書(2008年6月10日 故・青木常雄名誉教授ご家族来室参照)の同シリーズ異本が、重要文化財として展示されていたのが印象的です。

常設展示の中の「印刷の家」では、古い印刷機械を稼動させ、ベテランから若い人へ活版印刷技術の継承が行われています。動態保存と技術の継承が行われているさまをガラス越しに展示として見て、中に入って話を聞いたり(ガイドツアー)、体験学習することができます。

印刷博物館
http://www.printing-museum.org/

2009年10月14~16日全国大学史資料協議会総会・全国研究会

全国大学史資料協議会総会並びに全国研究会に出席しました。昨年度は西日本(沖縄)が会場となり、予算、業務の都合で欠席したので、全国研究会は今回が初参加となります。

10月14・15日(水・木)
会場:國學院大學渋谷キャンパス 学術メディアセンター常磐松ホール
14(水)
総会、講演、研究開発推進機構伝統文化リサーチセンター資料館見学、情報交換会
西日本部会校も参集した情報交換会であらためてご紹介いただき、ご挨拶申し上げました。

15(木)
全国研究会「大学史の社会的使命」 報告及び総括討論

10月16日(金)
見学:国文学研究資料館(大学共同利用機関法人 人間文化研究機構)

巨大かつ最新のバックヤードを見学させていただきました。極小規模ながら当史料室のバックヤードも、同じような作りであることにいささかの満足と安堵を覚えました。もちろんこれは書架と中性紙の文書箱が並ぶ「見た目」であって、温湿度管理や耐震構造などインフラ、整理とリスト化、情報公開などのソフト面は及びもつかないことです。

全国大学史資料協議会2009年度総会並びに全国研究会
http://www.universityarchives.jp/index.php?page=2009/08/2009_1.html

2009年10月21日日本歯科大学訪問

日本歯科医史学会学術大会の発表後にご紹介があり、千代田区富士見町の日本歯科大学生命歯学部に高橋慎一事務局長を訪問しました。

2009年10月30日社団法人キリスト教同仁社団・同仁美登里幼稚園訪問

8月8・9日の槃澗学寮資料調査では、多くの貴重な資料を得ました。内、借用の『同仁キリスト教伝道百年史』(赤司道雄 1990年)、『夢が実を結ぶまで ブラックマーホーム二十年の物語』(キャサリン・M・アズバン著、広瀬文枝訳 1986年※ 原書は1918年ボストンで刊行)には、東洋女子歯科医学専門学校の末期と、後継として設立した東洋女子短期大学の草創期を指導した当時の理事長・宇田愛先生(旧姓・庄司 1883~1982)の若き日のエピソードが多数記載されていました。

これらの本と本学江澤理事長夫人(宇田尚・愛夫妻の孫)のお話しによれば、同仁美登里幼稚園は宇田愛先生の命名によるものとのこと。また、大戦末期の1944年に開設され、そこに住んだ歯科卒業生から元米国人邸宅だったと聞いていた東洋女子歯科医学専門学校「高田寮」こそ、ブラックマー・ホームそのものでした。

宇田愛先生は1883年(明治16年)3月29日、千葉県安房郡豊田村岩糸の富商庄司氏次女として生まれ、女子高等師範学校附属高等女学校(現お茶の水女子大学附属中学校・高等学校)を経て、1908年に日本女子大学校英文学部本科(現日本女子大学文学部英文学科)を第5回生として卒業しました。現キリスト教同仁社団(以下、同仁キリスト教会)のブラックマー・ホームに「奉仕」して、初期の幼稚園教育や女性の地位向上に働き、終生クリスチャンであったことまでは分っていましたが、それ以上のことは不明でした。

あまりにも資料に乏しく、亡くなった際の葬儀記録では仏式、戒名さえあるのでクリスチャンであったことすら疑問符がつくような状況でした。近年の学内文書調査で、理事長就任後に監督官庁へ提出した履歴書や、敗戦直後に本学(財団)から同仁キリスト教会に資金援助を行った記録から、次第に様子が見えてきた矢先のことです。

両書とさらに資料があれば入手したいと思い、区内目白台3丁目(旧高田老松町)にある社団法人キリスト教同仁社団・同仁美登里幼稚園を訪問しました。以下は資料と聞き取りから得たことの要点です。

ブラックマー・ホームは社会活動を重視するユニバーサリスト派の同仁キリスト教会により、音羽の貧しい家庭の少女を救済し、教養を与え、以って女性の社会的地位向上を図る目的で1903年(明治36年)に建てられました。当時のキリスト教施設、キリスト教主義の学校と同様、海外(この場合は米国)からの献金によって建設、維持され、多大な寄付を継続したバーモント州の教会員Lucean Blackmer氏の名が施設名に冠せられました。

ブラックマー・ホームはまた、日本女子大生の寮としても機能していました。日本女子大学創立者・成瀬仁蔵はその思想上でユニテリアンの影響を受けており、1901年の同校開校式には教会の宣教師ミス・アズバン(Catherrine M. Osborn)が招かれ、以後繋がりができたのは自然な成り行きだったようです。

ブラックマー・ホーム成立以前から教会は「少女の家」(女子学生寮)を運営しており、宇田愛先生の入寮は1901年(高等女学校入学時と推定)、寄宿生はアズバンとハサウェイ(M. Agnes Hathaway)の指導の下、ホームの庭やベランダに近所の子ども達を集めて日曜学校や遊びの指導をしていました。1908年、正式に認可を受けて慈善幼稚園として発足し、同年4月11日に宇田愛先生は日本女子大学校を卒業、6月30日に宇田尚先生と結婚しました。寄宿生時代からアズバンとハサウェイを助けて保母として働き、1911年に改称した際、美登里(若い生命)の名称をつけたのでした。

ずっと時代は下り日米開戦前後、米国人宣教師の去ったブラックマー・ホームは閉鎖され、前述の通り東洋女子歯科医学専門学校高田寮となりました。敗戦直前の1945年6月、向かいの東大病院分院(現東大総合教育研究施設)を空襲による火災から守るため、防火帯用地として強制疎開の対象となり、解体されました。既に東京主要部の大部分が焼き尽くされ、東京はこの時期には米軍の爆撃リストから除外されていました。当時の日本人が知る由もありませんが、残念なことです。僅かな名残りの什器が、8月の槃澗学寮記事に写真で掲載したライティングデスクと椅子です。

『夢が実を結ぶまで ブラックマーホーム二十年の物語』より。

「庄司あいはうらやましい程に、自己制御力を持っている。彼女が入寮以来、大人の誰一人として、あいの怒った様子を見た事がなかった。それにあいがきびしい試練を経験してきた事を私共は知っている」

「庄司愛は、ドッジ博士の被保護者の一人であり、ブラックマー・ホームが、世に送り出した最も真の宣教師精神を持った働き手の一人であった。この時期に、女子大学英文科を卒業し、幼稚園の園舎を建てる計画に、ミス・ハサウェイを助けたのは彼女であり、又美登里(若い生命)の名称を選んだのも彼女であった」

このような宇田愛先生でしたが、公私ともにキリスト者らしいふるまいはまったく見せなかったようです。江澤理事長夫人がある時に聞いたところ、信仰は自分の心の中に持っていれば良いこと、と仰ったそうです。

東洋女子短期大学の開学に際しては、英語教育スタッフの手当ては宇田愛先生と日本女子大学との関係性のみで捉え、教会(信仰)については精神的背景として考えてきました。短大極初期の二人の専任者、青木常雄先生と吉岡まつの先生の内、吉岡先生は日本女子大学出身の教授者で同仁キリスト教会信者であることは承知していましたが、同氏もまたブラックマー・ホームの寄宿生であったこと、戦後も社団法人理事をお勤めだったことが分りました。さらに短大と同時に開校した各種学校オリエンタル英学院(後に東洋文化学院、今日の英語教育開発・国際交流・メディア各センター)の教育スタッフである南波操、後年の短大学生部長、村瀬繁子の両先生もまた、教会・幼稚園の関係者だったことも判明しました。

青木常雄先生のご長女青木澄子氏が、同仁美登里幼稚園でバレエとリトミックを教えておられたというお話しも伺いました。これは青木常雄先生が東洋女子短大に関係してから、宇田愛先生を通じて紹介があったのではと推測します。

このように、かつては東洋学園と同仁キリスト教会が深い関係にあったことが浮かび上がってきました。

医学系(歯学)から文系(語学)への転換期に理事長として指導した宇田愛先生の思想・信仰、人的繋がりを解明することは、共学の四年制となっても短大の発展形である東洋学園大学のアイデンティティ確立上、重要なことと考えます。

キリスト教同仁社団・同仁美登里幼稚園からは資料11点をお譲り下さり、一点を借用させていただきました。ユニバーサリストとユニテリアンの違いは? などといった初歩的な質問にも丁寧にお答え下さった小門宏理事長、求めに応じて資料室や園庭までご案内下さった石井瑠美事務局長に感謝いたします。

今日の同仁美登里幼稚園。目白台の閑静な住宅街にあり、都心でありながら広い園庭があり、保育園も併設されています。この日は遠足で子ども達の姿は少なく、静かでした。けやきの巨木が昔日の面影をたたえています(許可を得て撮影)。

幼稚園行事で使用されたパネルより、在りし日のブラックマー・ホーム(許可を得て撮影)。

8月の槃澗学寮記事にも紹介したブラックマー・ホームのライティングデスクと椅子の別角度写真。右下に「ミス アーズバン」と記した木箱があります。

箱の中にはCatherrine M. Osborn先生の写真がありました。

こちらは以前江澤家(宇田家)より借用したプライベートアルバムにあったM. Agnes Hathaway先生の肖像写真(スキャナで読み取った後、傷を補正済)。

戦前の宇田家写真。(以下敬称略)左より宇田尚・愛夫妻の長女房(学校法人東洋学園第四代理事長兼東洋女子短期大学第三代学長、最後には学園長であった馬渡房先生のお若い頃)、東洋学園創立者・宇田尚(この当時、財団法人東洋女子歯科医学専門学校理事長兼校長)、次女富(愛知揆一夫人)、宇田愛(財団法人東洋女子歯科医学専門学校→〔改組〕学校法人東洋学園第三代理事長)。

三丁目坂お向かいの東京大学総合教育研究施設(旧東大病院分院)。この施設を空襲から守るため、ブラックマー・ホームは取り壊されました。その頃から終戦までの間、もはや東京に本格的な空襲はありませんでしたので、この通り健在です。歴史の皮肉を感じます。

2009年10月30日日本女子大学成瀬記念館訪問

上記事の続きです。

ここ目白台(旧高田老松町・高田豊川町・雑司ヶ谷町)は宇田愛を核に、同仁キリスト教会、青木常雄短大初代主任教授邸、日本女子大学が集中しています。これらが新制東洋女子短期大学に収斂します。つまり、この地は戦後の新生(新制)東洋学園揺籃の地であるということです。

美登里幼稚園を起点に60年前、宇田愛先生が学園の再生を担って歩いた道を辿ってみます。

2~3分で故・青木常雄先生邸に着きます。突然の押しかけ訪問でしたが青木敏子様(ご長男夫人)が歓待下さり、長時間お邪魔してしまいました。次に日本女子大学へ。成瀬記念館に伺い、昨年ご提供下さった資料の活用成果をご報告し、「旧成瀬仁蔵住宅」(成瀬記念館分館)の見学をお願いしました。

都心のキャンパスの中に明治中期に建てられた創立者の住まいが残っているということは稀有なことで、文京区指定有形文化財に登録されています(同大の保有する指定有形文化財は他に明治の洋風建築である成瀬記念講堂が存在します)。同大評議員大隈重信侯のため、特に設けた手すり代わりのロープを伝って二階に上がると、書斎、寝室が什器もそのまま残っています。現に「モノ」が存在するという事実の重みに打たれます。成瀬先生が亡くなる直前に行った「告別演説」で使用された椅子に、特に深い感銘を受けました。

本学の槃澗学寮を単なる「山の家」としてでなく、東洋学園のアイデンティティ確立のため有効に活用したいと考えています。日本女子大学からは、創立者・大学史資料・建築遺産が大学ブランドに密接に結びついている好例として、多くの示唆を得ることができます。夕刻のお忙しいところ、快くご案内下さった成瀬記念館に感謝いたします。

旧成瀬仁蔵住宅(日本女子大学成瀬仁蔵生誕150年記念事業)原則非公開
http://www.jwu.ac.jp/st/grp/naruse150/event.html

PAGE TOP
  • 東洋学園大学
  • 東洋学園校友向けホームページ