東洋学園大学 史料室

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2009年5月11日卒業生より作品の寄贈

卒業生の中には絵画、手芸、短歌、俳句、文章などをよくし、プロはだしの技量を持っていたり、中には本職の声楽家になってしまった方(SONY(株)相談役O様姉君、歯科医専23回生・故人)など、特に東洋女子歯科医学専門学校OGに顕著な傾向が見られます。年齢と余暇(経済力)の関係のように思われがちですが、それ以前に育った環境と、後天的に身につけた教養の影響が大きいように思います。

『東洋学園八十年の歩み』(2007年)では、編纂委員長の発案で広く卒業生の作品を集めた「ギャラリー」の章を設けましたが、卒業生への働きかけを始めたばかりの時期で、応募状況は残念ながら低調でした。委員長の意思を継ぎ、その後も調査・取材の折に、何かあれば無心をしています。集まった作品の一部は、史料室の卒業生作品コーナーで展示させていただいています。

ここでご紹介するのはこの日、寄贈を受けた歯科医専22回生、加藤一枝先生の仏彫です。全日本歯科美術連盟(DAJJ)展に出展されてきた仏像の中から、珍しいレリーフをいただきました。

木彫レリーフ『三十三間堂 金剛力士 阿』(525×385㎜)
木彫レリーフ『三十三間堂 金剛力士 吽』(525×385㎜)
『加藤泰三 一枝 金婚記念作品集』 1部(附:写真2葉)
折帖『道づれ』 2部

阿形は那羅延堅固(ならえんけんご)像、吽形は密迹金剛(みつしゃくこんごう、蜜迹とも)像が正式のお名前、京都蓮華王院(三十三間堂)の二十八部衆です。眼には玉が入れられ、加藤先生の彫刻の師である兵庫県神戸市の須磨寺大仏師山高龍雲師により、開眼供養がなされています。大学で長年、英文学を講ぜられてきたご主人様の俳句に加藤先生の俳画を添えた折帖なども頂戴しました。

全日本歯科美術連盟(DAJJ)展出展作品では、昨年11月、23回生の佐藤榮子先生から油彩『旧王・那覇家のシーサー』をいただいています。今のところ卒業生作品はスペースの関係で主に書籍(歌集、画集など)しか展示していませんが、いずれ専用のスペースを設けたいと考えています。

阿形、那羅延堅固像。本来は立体である立像のお顔の部分を、平面のレリーフとして写し取ったものです。

吽形、密迹金剛像。

ご夫妻の俳句・俳画集『道づれ』から、今の季節のページを選んでご紹介します。

OG執筆の書籍展示状況。以前、理事長室か学長室で使用されていた書棚から既存の棚を撤去し、アクリルの斜台を取り付けたものです。言わば廃品の再利用ですが、コストをかけずに展示を行っている一例です。

2009年5月12日第15回東京寮歌祭 その後

東京フォルクスオーパー代表の長野安恒様(二期会声楽家)より、『茜寮別離歌』の清書した楽譜2種と、演奏を録音した音源が届きました(作曲家・平井康三郎先生と旧制東洋高等学校参照)。ご多忙にもかかわらず、無償でのご厚意に心より感謝申し上げます。

3月7日の第15回東京寮歌祭の会場で、長野さんは旧制東洋高等学校校歌、寮歌2曲の譜面を一見してすぐ、校歌は楽譜として正しいが寮歌の方は問題点がある、とご指摘されました。校歌はプロの作詞作曲、寮歌は当時の在学生と思われる無名の方の手になるものです。一瞥で見抜かれたのは、やはりプロの眼でした。

長野安恒さんの歌う旧制高等学校寮歌は、CD集『うたの原風景』(ニホンモニター株式会社、ドリームライフ事業部)Disk9に収録されています。

『茜寮別離歌』とともに残る『茜寮別離歌』。昭和50年代末に馬渡 房理事長兼学長(当時、故人)と黒澤嘉幸常任理事兼総務部長(当時、故人)が旧制東洋高等学校について追跡調査を行い、1回生OBの河野俊一金沢医科大学教授(当時)から提供せられたものです。

清書された楽譜。作詞は安原徹次となっていますが、原譜にあるように作詞者には金子五良の名前も併記されています。

一部判読できない部分があり、2パターンを作っていただきました。

2009年5月15日学会例会発表と和久本歯科医院資料

日本歯科医史学会第376回例会において、下記発表を行いました。

演題「歯科医学専門学校廃止後の東洋学園(2) ― 新制短期大学設置前後 1945~1960年を中心に ―」

http://www.jsdh.org/blog/2009/05/376_1.html

2月20日(金)第373回例会発表の続き、後半部分です。前半では戦災被災と津田沼仮校舎への疎開、占領政策(学制・医制改革)による東洋女子歯科医学専門学校の募集停止と救済措置による特設旧制高等学校(理科乙類=医学部予科)の設置、本郷校舎(附属病院)の復旧再建までを縦糸に、パージ(追放)による指導者(理事長、校長)の交代を横糸として、主に学内文書を用いて発表しました。

後半の今回は、新制東洋女子短期大学(英語科)設置後も、転換が決して順調に進んだ訳ではないことを考究しました。各種学校の東洋女子歯科厚生学校(歯科衛生士)、オリエンタル英学院(英文タイプ・英会話)、東洋予備校(大学進学予備校)、内科診療所、歯科診療所、東洋生活科学研究学院(家政)、果ては北海道での営林事業など、主たる設置校以外に収入源を求めて開設し、あるいは企画倒れに終わった雑多な兼営の中にあって初期10年間低迷した短期大学が、高度経済成長の到来とともに成長機会を得る1960年頃までを対象としています。

発表では主に学内に残る理事会決議録や設置認可申請書、経営枢要にあった人物のメモランダムを資料として用いましたが、これは発表直前の5月11日に和久本歯科医院(文京区本郷3丁目)院長の和久本雅彦先生からご提供いただいた資料『婦人歯界』第11号(1961年6月)です。英語の短大に変貌した学校と、歯科医専卒業生らの歩む道が次第に遠ざかっていく様を象徴する資料として、急遽、掲載資料として追加させていただきました。
表紙下にお名前のある和久本文枝先生は雅彦先生の祖母にあたり、千葉県松戸町(当時)の戸定邸(水戸徳川家分家の徳川昭武家)御殿医の家に生まれ、1924年、明華女子歯科医学専門学校に入学、1928年東洋女歯3回生総代として卒業。同年より文部省歯科医師試験附属病院(→東京高等歯科医学校 現東京医科歯科大学)医局に内地留学、同医局在籍中の1929年に「東洋女子歯科医学専門学校校歌」を作曲。1930年から東洋女歯口腔外科学講師~教授。戦後、医学博士学位取得(東京医科歯科大学)、東洋紫苑会会長(同窓会)、全国婦人歯科医会常任理事などを歴任し、「東洋女子歯科大学」設置認可寸前までこぎつけたその統率力、企画力、実行力に「文枝先生がもし男性であったら、今頃はとっくに歯科医師会長になっておられるだろう」(故・総山孝雄東洋女歯教授、東京医科歯科大学名誉教授)と言わしめた人物です。
なお、画像では記事内容を読み取れないと思いますが、次項「元帥・海軍大将東郷平八郎の総義歯」所有者で、東郷平八郎の歯科主治医であった東洋女歯教授・附属病院長、入交(いりまじり)直重先生の訃報とその後の法要が記されています。

和久本文枝先生、第8回卒業生の卒業アルバムから(1933年)。

2009年5月15日元帥・海軍大将東郷平八郎の総義歯

6月29日(月)~7月31日(金) 仮公開
8月1日(土)~9月13日(日)

大学事務閉鎖、展示室内外改装のため休館
(但し8/3~7、24~28は要事前連絡で見学可)

9月14日(月)~ 展示整備完了後、公開開始

東郷平八郎(1847~1934)は日露戦争における日本海軍連合艦隊司令長官としてロシア海軍と戦い、特に日本海海戦ではバルチック艦隊に対して、近代海戦史上類を見ない一方的勝利を収めたことで知られる海軍軍人です。

本日、当史料室は元日本歯科医師会常任理事の入交(いりまじり)重道氏(新宿区新小川町6丁目 入交歯科医院)より、元帥海軍大将東郷平八郎が使用した総義歯(総入れ歯)の寄託を受けました。

入交重道氏のご尊父、故・入交直重(1887~1960)は三菱財閥創業家の岩崎家の援助を受けつつ、苦学力行して日本歯科医学専門学校(現日本歯科大学)、米ジョージタウン大学歯学部を卒業し、ノースウェスタン大学及びペンシルバニア大学ポストグラデュエートコースを修了、1919年帰朝後に開業しました。1924年から1950年まで本学(旧制:明華~東洋女子歯科医学専門学校)歯科補綴学教授、1934年より附属病院長、東洋女歯の英語科短期大学転換後は日本歯科大学教授、日本歯科医師会会長などを歴任されました。歯科における東郷平八郎や吉田茂の主治医として、元帥ご使用の総義歯を保存されてきました。

戦前、この総義歯は東洋女子歯科医学専門学校で展示されていましたが、第二次世界大戦の末期、東京空襲必至の情勢となって入交家に引き上げられました。本学は1945年4月13日深更~14日未明の空襲で被災全焼しましたが、大曲(新宿区)の同家は奇跡的に終戦まで被害を免れました。その後、昭和40年代前半から一時期、横須賀に保存されている記念艦「三笠」、つまり日露戦争当時の連合艦隊旗艦であり、東郷司令長官座乗の戦艦「三笠」に寄託され、展示されていましたが、縁あって今般、約65年ぶりに本学に戻ってきたものです。

入交直重自身が東郷平八郎の総義歯を作っていますが、遺されたのはそれ以前の、別の歯科医が手がけたものです。この総義歯の具合が悪く、入交歯科医院で新たに作った総義歯が大変良い出来映えだったため、元帥より「精妙」の書を贈られたほどでした。この書は入交家に現存していますが、ではなぜ肝心の総義歯は残らなかったのか。詳しくは展示でご覧いただきたいと思います。

(*入交直重の留学中学歴は故・榊原悠紀田郎先生著『歯記列伝』 クインテッセンス出版1995年, による)

壮年、晩年の写真は既刊の書籍に多数掲載されていますが、これほど若い時期の入交直重先生の写真は初公開ではないでしょうか。重道先生によれば、米国留学中の撮影ではないか、とのこと。(入交家蔵)

「精妙 為入交君 平八郎■■」(入交家蔵) *末尾2字、判読できる方がいらっしゃいましたらご教示いただければ幸いです。最後の一字は花押のようですが)

東郷平八郎専用”Sani - Cup”(サニタリーカップ)。今は使い捨ての紙コップや、コップを使わないタイプになっています。

医院待合室における吉田茂首相と入交直重。この写真も初公開です。(入交家蔵)

2009年5月16日日本寮歌学会総会・研究会出席

日本寮歌学会総会・研究会(於 成蹊大学)に出席しました。出席者は寮歌祭同様、ご高齢の方が大半を占めておられましたが、後世に旧制高等学校寮歌を、またそれに象徴される旧制高等学校の教育と精神を遺したいという熱意に支えられ、学会は非常に盛況でした。

なお、学会開会前に成蹊学園史料館に立ち寄りました。隅々まで創立者・中村春二先生の思想と精神が息づいているように感じさせられる、清楚なキャンパスに入って直ぐの場所に史料館があり、大変うらやましい環境です。展示を見学させていただいた後、担当学芸員の方に来意を告げ、ご対応いただきました(後日28日の項、全国大学史資料協議会東日本部会2009年度総会でもお世話になりました)。

2009年5月23日東郷平八郎の総義歯、暫定公開(日本防衛学会)

5月23日、本学で日本防衛学会第2回シンポジウムが開催されました(於 本郷キャンパス1号館フェニックス・ホール テーマ:「オバマ米新政権と日米の安全保障関係」)。防衛関係者、研究者が多く来学されるにあたり、15日(金)に寄託された上記「東郷平八郎の総義歯」を当日、仮公開しました。

この際、併せて「東條英機首相兼陸相・陸軍大将の抜歯後印象の石膏模型」の写真資料を展示しました。この石膏模型は巣鴨プリズンに収監中の東條元首相の総義歯を作製するため、米海軍歯科軍医が担当し、軍医のデンタルアシスタントだった東洋女子歯科医学専門学校20回生が印象から石膏模型を作成し、ご自身の歯科医院で保存してきたものを撮影させていただいたものです。

2009年5月28日文京区観光協会誌への掲載

文京区観光協会の文京観光ニュース『文の京(ふみのみやこ)であい旅』第24号、「いってみようよアカデミック編」第5回の紙面2ページの執筆を担当しました。この企画は区内大学が持ち回りで担当しており、本日納品されました。大学単体では「観光」素材として少々役不足なので、壱岐坂地域(旧元町・弓町)の大学として、良く言えば”オックスブリッジ”のような、学校と街とが混然一体となっている様を紹介させていただきました。

2009年5月28日全国大学史資料協議会

全国大学史資料協議会東日本部会2009年度総会(及び講演会、情報交換会 於 東京経済大学国分寺キャンパス)に参加しました。詳細は以下をご参照下さい。

http://www.universityarchives.jp/index.php?page=2009/04/post_17.html

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