東洋学園大学 史料室

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2009年2月2日文書史資料の保存1

 1月19日付記事にもある通り、大学史資料の整理と保存は重要な業務の一つであり、他大学に比較して最も遅れている分野です。先月から2日にかけ、中性紙のもんじょ箱(大)10、仕切り付き棚はめ込み箱B5サイズ×21、封筒2種(文書用・写真用)が納品されました。
 写真で使用状況を示します。

2009/02/02

▲史料室の一角は事務室兼収蔵庫としています。組み立てた「仕切り付きはめ込み箱」を一部の棚にはめ込んだ状態です。まだ中は空、周囲には今後の整理・リスト化を待つ資料の一部が、一応の年代順で並んでいます。

2009/02/02

▲ロッカー内にも試験的に入れてみました。歯科医専の卒業証書交付原簿(本科・専攻科)、校友会誌『東洋女歯校友』等を格納してあります。原簿は過去に副本作成済み、校友会誌(戦前に数年分合冊済み)は次年度以降の作業をメドとしています。

2009年2月5日(続)本学卒現役歯科医最高齢?

 1月27日記事の続きです。昭和8年卒業(8回生)の現役歯科医・森シズノ先生より、卒業アルバム『卒業記念寫眞帖 眞善美』をご寄贈いただきました。卒業アルバムを探して多くの卒業生に当りましたが、長い年月の間には大きな戦争もあり、これまで出てきたことがありませんでした。それだけに、九州の地から届いた梱包から本書が出てきた時には大変驚きました。
 本学に残された旧制時代のアルバムは昭和2年(2回生)、18年(18回生)の2冊しか現存していません。それぞれ創立期と大戦末期のもので、戦争が激しくなる以前の、社会も学校も安定していた時代の写真記録は校友会誌、学校一覧(入学案内書)などの印刷物を除き、ほとんどない状態です。従って森先生のご寄贈は、貴重な記録を本学にもたらして下さったことになります。前2冊と比較して興味深いのは、窓外の壱岐坂通りや、砲兵工廠時代の後楽園まで写り込んでいる点です。編集後記に「非常時」の言葉はあるものの、一応の平和が保たれていた時期の女子高等教育、また地域の記録として大変貴重なものです。
 森先生には文書と電話でお礼をお伝えしました。先生のご健康と、医療人としてのご活躍の再開をご祈念申し上げます。

2009/02/05

▲上の医局集合写真の前列左から三番目は、昨年7月7日の記事に紹介した新井(旧姓有泉)たつる先生(5回生)。

2009/02/05

▲上から御茶ノ水駅改札(御茶ノ水橋口)、水道橋駅前交差点(省線ガード越しに東京歯科医専を見る…今は「JR線越しに東京歯科大ビルを見る」、となります)、水道橋駅改札(東口)。都心のインフラは戦前にほぼ完成しており、基本的な構造は変っていません。

*この記事の画像2点は下記13日記事の外注データ化によるもの。

2009/02/05

▲森シズノ先生近影。後ろはお孫さんご夫妻、手前右は患者さん。(了解を得て掲載)

2009/02/05

▲『東洋学園八十年の歩み』に、「歯科医専卒業生は地域の医療に貢献し、その子、孫へと引き継がれている」という趣旨の文がありますが、これらの写真は凡百の文よりそれを如実に物語っていると言えましょう。

2009年2月7日「明治女学校100年記念展」

 土曜日の午後、豊島区立郷土資料館の「明治女学校100年記念展」(会期1月28日~2月15日)を見学し、講演「明治女学校を読み解く」(早稲田大学教育学部金井景子教授)を聴きました。同展を教えて下さったのは、これまでもこのTOPICSに度々登場されている建築家の今井兼介先生です。今井先生のご尊父、今井兼次先生は安曇野市穂高の碌山美術館の建築を設計されています。今回の企画展の目玉として、荻原守衛(碌山)作「女」の石膏像が初公開されており、その関係からです。
 明治女学校は旧幕臣でキリスト者の木村熊二(小諸義塾の創立者でもある)が「女性の自覚と自立」を掲げて1885年に創設し、同校関係者には若松賤子や荻原守衛、また西洋医学を修めて医術開業試験に合格し、日本初の公許女医となった荻野吟子が存在します。相馬黒光、羽仁もと子、野上弥生子など進歩的な女性を輩出し、明治の女子教育に大きな足跡を残しましたが、その進歩性の故か明治末に廃校となりました。
 帰校後、荻野吟子からの連想で、公許女性歯科医第一号である高橋孝(歯科医籍第235号)が関係していないか気になり、資料(榊原悠紀田郎著『続歯記列伝』 2005年)にあたったところ、やはり同校の卒業生でした。本学は元が女子歯科医専です。やや牽強付会かもしれませんが、明治女学校とのかすかな接点が見つかった思いがします。
 金井先生のご講演は来場者が朗読台本「声で創る明治女学校」を読み、群読に参加することによって明治女学校を体感するという趣向で、群読をリードする早大教育学部ゼミ生の朗読、アカペラが素晴らしく、群像劇を見たような印象です。最近、筆者もあちこちで発表する機会がありますが、芸のない原稿棒読みに終始しており、こういうあり方もあるのだと眼の醒めるようなスタイルでした。

2009年2月13日文書史資料の保存2

 (文書史料のデータ化と複製本製作)
 本日及び3月5日、下記史資料のデータ化作業が終了し、マイクロフィルム(MF×2)、データ(TIFE:DVD×9、JPEG:DVD×2)、複製本7冊が納品されました。複製本は内部文書を簡易製本、卒業アルバムは上製本とし、一部は残り2部を製本作業中です。これだけでも撮影コマ数は1,000コマを超えます。

『寄付行為財団役員関係書類第壹号』 大正15年
『大正十五年九月以降 役員会決議録』 大正15年
『東洋女子歯科厚生学校 設立認可申請』 昭和23年
『東洋女子短期大学 設立認可申請書』 昭和24年
東洋女子歯科医学専門学校2回生卒業記念寫眞帖 昭和2年
東洋女子歯科医学専門学校8回生卒業記念寫眞帖『眞善美』 昭和8年
東洋女子歯科医学専門学校18回生卒業記念寫眞帖『おもひで』 昭和18年
担当:(株)ニチマイ

2009/02/13

2009年2月20日学会例会発表

 予定通り日本歯科医史学会第373回例会で発表を行いました。

演題「歯科医学専門学校廃止後の東洋学園(1) ― 新制短期大学設置前後 1945~1960年を中心に ―」

http://www.jsdh.org/blog/2009/02/373.html

思いがけず大きな拍手と、質疑の際には励ましのお言葉も頂戴しました。後進に対する諸先生方のご配慮を感じるとともに、今後より精進しなければという思いで受け取りました。
 次回発表は5月例会の予定です。

2009年2月20日卒業生見学

 学会発表の前に、仙台から歯科医専23回生川上舜子先生と25回生前島康子先生を史料室にお迎えしました。川上先生のご尊父は歯科医学ジャーナリズムの魁であり、日本歯科医史学会立ち上げの推進者の一人である今田見信先生、ご主人様は一昨年亡くなられた川上道夫東北大学名誉教授(歯学部)です。また、川上道夫先生のご母堂は本学(東洋女子歯科医学専門学校)教授・附属病院院長の川上みね先生です。
 1934年、川上みね先生は附属病院長現職のまま39歳で急逝しましたが、この時の学校葬における宇田尚理事長兼校長の弔辞を、文語調で少し読みづらいかもしれませんが掲げます。

 「君が三十有九年の生涯は、寧ろ其短命を歎ずべしと雖も(略)君が身を以て樹てし功績に到りては、寔に大いなるもの在り。即ち君が尊き半生の心血は、未だ発展途上にある我が國女子歯科教育に捧げ盡されて剩さず、殊に當校方針に共鳴せられ、科學教育を女性に施すに徳操の練磨を基とし、以て女子歯科醫師の品性向上に盡瘁せられたりき。而して其效果の顕著なる、永久に我が國女子歯科醫學史上に燦たる光輝を放つべく、君が膝下より出でて今各地に潑地の力を致しつゝある者、皆君が徳を仰ぎて止まざる也」

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