東洋学園大学 史料室

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2008年10月4日学会

 第36回日本歯科医史学会総会・学術大会(於鶴見大学)に出席しました。
 詳細は下記をご参照下さい。
http://www.jsdh.org/blog/2008/10/36.html

2008年10月8日史料のご寄贈1

 総会・学術大会当日、学会員の本平孝志先生から神奈川県歯科医師会・歯の博物館館長の大野粛英先生をご紹介いただき、連絡を取ったところ早速所蔵史料の中から本学に関係するものをご寄贈いただきました。

校友会誌
『東洋女歯校友』第21号 昭和9年12月刊
『東洋女歯校友』第25号 昭和11年7月刊
『東洋女歯校友』時局特集号 昭和13年1月刊
『東洋女歯校友』第28号 昭和13年7月刊
『東洋女歯校友』国民精神総動員特集号 昭和13年12月刊

 9回生(昭和9年卒)開業通知 長野県長野市

 校友会誌第25号と『時局特集号』は従来存在が確認されておらず、東洋紫苑会(歯科医専同窓会)編『東洋女子歯科医学専門学校の六十八年』にも掲載されていませんでした。このため24号の次の『卒業生一千名記念特集号』を25号にカウントし、発行通算は37回と考えていました(『東洋学園八十年の歩み』刊行時点ではさらに少なく通算34回発行と記述)。
 今回のご寄贈により特集号を挟みながら№1から29まできれいに揃うことが判明し、末期の『東洋女歯報国会誌』改題後まで含め、都合39回発刊されたことが分かりました。
 一つの一級史料が出てくることにより、既存の出版物に記されている「常識」が覆されることがしばしばあります。本学は過去、体系だった校史編纂を行なっていなかったことから、このような事案が非常に多く、昨年刊行の『東洋学園八十年の歩み』ですら増補・修正を必要とする箇所が多量に発生してしまいました。現在も別冊『年表編』の推敲を重ねていますが、特に旧制期、新制初期については数万字を要する増補量になっています。
 なお、『国民精神総動員特集号』も現品は本学になく、同号掲載の学説には医学博士・宇田儉一「Dentogene Fokalinfektionと思惟せらるる一患者の臨床記録」が掲載されており、これも従来タイトルのみで内容は不明でした。系図で確認すると宇田儉一先生は宇田廉平次男で財団法人東洋女歯協議員・宇田愿次郎の長男、宇田尚先生の甥にあたります。
 貴重な史料を「在るべき所に在るのが良い」と快くお譲り下さった大野先生、橋渡しをして下さった本平先生に篤く御礼申し上げます。

2008/10/08

▲今回ご寄贈のあった5冊。これら以外の大部分は当室に現存しますが、新潟醫科大学(現 新潟大学医学部)の蔵書印があり、同大で合本化されたものです。寄贈者として東洋女子歯科医専校友会、または江森茂十二教授(補綴学・材料学など、校友会誌編集担当)の名が記されています。同大図書館蔵書から抹消後、本学に戻った経緯は不明。なお、第1号から8号、その他一部未発見です。

2008/

▲時局特集号口絵。眉をひそめる向きもあるかもしれませんが、直視しなければならない事実です。防共協定記念国民大会は1937年11月25日、後楽園運動場とあるのは後楽園球場、現在の東京ドームで行なわれました。11月6日、前年11月に成立した日独防共協定にイタリアが調印して三国防共協定が成立し、第二次世界大戦の枢軸国を形成します。7月7日には日中間の軍事衝突が盧溝橋事件をきっかけに全面戦争に発展し、日中戦争(当時は日華事変と呼称)が始まっています。今はあまり使われなくなった「時局」という言葉は、このような国内外の事象を指してのことです。当時の本学は、皇国史観一色に染まっていたと申しても過言ではありませんでした。

2008年10月20日史料のご寄贈2

 東洋女子短期大学英語科11回生(昭和37年卒)・佐志原圭子さんより在学中の教科書など20点に及ぶご寄贈がありました。短大初期は史料の最も手薄な時代で、法人史料はともかく授業、学生生活に関するものは皆無と言って過言ではない状態ですので、大変ありがたいお申し出でで貴重なものです。経年数から見ればまだ歴史的価値は浅いかもしれませんが、今、散逸を防ぎ、適切な保存処置をとらないと後で取り返しがつかなくなります。
  奥付を見ると、この時代の教科書は戦前に初版が出たものが版を重ねて使われているケースが多いことが伺えます。イラストや写真は少なく、級数の小さな字がぎっしり並んでいます。語学教育研究所が編集した”THE NEW THINKING IN ENGLISH”という教科書にH.E. Palmerが序文を寄せていますが、Palmer博士は文部省及び松方コレクションで有名な松方幸次郎の招聘により大正12年に来日、文部省内に英語教授研究所(現語学教育研究所)を設立し、理事に青木常雄先生(6月10日の記事参照)を招聘しています。東洋女子短大はH.E. Palmer、青木常雄、語学教育研究所という語学教育の大きな流れの中に位置づけられる存在であることを、この小さな教科書は雄弁に物語っています。
  ご寄贈下さった佐志原さんは卒業後、旅行会社に勤務の傍ら、四年制大学、大学院に進学し研鑽を積まれ、現在は文化人類学、民俗学を学ばれていらっしゃいます。

2008/10/20

▲上の右2冊は青木常雄名誉教授の執筆。中列左が”THE NEW THINKING IN ENGLISH”。下左2冊は後に2類:実用英語課程(→3コース:実用英語コース)のコース長を務めた篠原新次郎教授の執筆。右は一般教育科目の「歴史」に使用された教科書ですが、原書で授業が行なわれていました。

2008/10/20

▲上左、ロバート・ネイサンの”PORTRAIT OF JENNIE”は映画『ジェニーの肖像』の原作。中列、下段は第2外国語科目のフランス語テキスト。

2008/10/20

▲心理学の永澤幸七先生は昭和26年から63年まで東洋女子短大に出講されていました。旅行などの行事に積極的に参加され、非常に多くの写真にいつもにこやかに写ってらっしゃるので、既知の方のような錯覚を覚えます。下左E.オニールの戯曲集”NINE PLAYS”は教科書ではありませんが、当時、個人的に読まれた蔵書とのこと。下右の名簿は短大同窓会事務局に確認したところ、冊子にした同窓会名簿として最初のものということでした。

2008年10月23日歯科医専23回生クラス会

 2005年1月24日朝日新聞「声」欄に23回生鈴木彧子先生(藤沢市鈴木歯科医院)が『女性の歯科医生んだ「母校」』を投稿されたのが、史料室設置のきっかけの一つでした(東洋女子短期大学の閉鎖と創立八十周年ということもあります)。その鈴木先生を含め、昨年11月に本学で傘寿の会を行なった東洋女子歯科医学専門学校23回生(昭和23年卒)が再び本学に集まりました。今回は同期会かたがた史料室の見学という趣旨です。
  学内に残っているものは主に法人史料で、テキスト類、臨床実習用機器、標本など全て失われています(余談ですがベテラン職員がまだ若手だった頃、頭骨、顎骨などの標本を上席者の指示で金槌で砕いて廃棄したとか)。このため足踏式ケーブルエンジン(歯科用旋盤)など、展示史料のかなりが鈴木先生のお声がけで23回生が中心となってご協力して下さいました。このため寄贈者の方がご自身の所蔵品だった展示を写真に写したり、記念写真を撮ったりする光景が多く見られました。
  お昼は元・楠亭のPAISIBLEで一ノ渡尚道学長、原田規梭子副学長をお招きして昼餐会、この場で両先生から学校周辺を描いた絵はがきのプレゼントがあり、また昨年の会で一ノ渡学長が撮影された写真も贈られました。
  その後は再び学校に移動し、1号館教職員食堂で懇親会を行ないました。演出として当日のみ、スチレンボードのパネルに拡大した流山アーカイブズ展示写真の内、23回生の写真を選んで仮設しました。写真に写る自らの、また友人の、若かりし医学生だった頃の記憶を語り合ってらっしゃいました。

2008/10/23

▲1冊のノートを囲み、話は尽きません(通常、展示ケース内から外にはお出ししません)。

2008/10/20

▲学食(教職員食堂)にて。

2008/10/23

▲23回生集合写真。東洋紫苑会(同窓会)はすでに解散しており、歯科医専OG全体として集まる機会はもうありませんが、今後も各期別、地域ごとにお気軽にご来校下さればと思います。

2008年10月23日史料のご寄贈3

 同期会開催当日、会の幹事をなさった柳田きくよ先生から、昭和28年の東洋女子歯科医学専門学校同窓会の通知(往復はがき)をご寄贈いただきました。この当時、まだ東洋紫苑会の名称はありません。昔のものには手書きなのにまるで活字のごとく几帳面な筆跡の印刷物が時々見受けられますが、謄写版刷りと思われるこのはがきも同様です。
  返信の送付先であり、東洋紫苑会の命名者である和久本文枝先生については5月22日の記事をご参照下さい。

2008/10/23

▲会場の小川町カメラ会館は現存しないようです。紫苑会事務局が本学本郷校舎(当時、短大英語英文科)に「復帰」したのは1986年ですが、もっと早く実現できなかったものかと悔やまれます。

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