東洋学園大学 史料室

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2008年9月7日東洋学園史料室の紹介(テレビ放映について)

 7月に収録の模様を既報した文京区民チャンネル(東京ケーブルネットワーク 千代田・文京・荒川区)番組『特集ぶんきょう』「文京ミューズネット」は予定通り8月中2週間に亘って1日2回放映されました。
 9月7日(日)には東京メトロポリタンテレビ(東京MX)で12:00より、同番組が23区広報番組として首都圏一帯に放映されました。

2008年9月15日『TILES タイルの本』

 月刊誌『TILES タイルの本』9月号に本学のフェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」が紹介されました。連載「モザイク建築ラビリントス 6 東洋学園大学(東洋女子短大) 今井兼次氏のフェニックス・モザイク」及び表紙です。著者の喜井豊治先生はイタリア政府奨学金留学生としてイタリアでモザイクを学び、フランスなど国際コンクールで授賞歴のあるモザイク作家です(TOPICS4月22日の項参照)。
 先生は創作活動と美大での指導の傍ら、日本のモザイク壁画を記録し、それらを歴史の中に位置づける試みとして本連載を執筆されています。ギリシャ、ローマ時代から続くヨーロッパの長いモザイクの歴史を踏まえつつ、制作時の建築家、デザイナーの思想、技法、当時の業界の動向を明らかにされています。
 これまで採り上げられてきた建築物は近三ビル(設計:村野藤吾、モザイク:奥村新太郎)、ライオンビヤホール銀座7丁目店(設計・モザイク:菅原栄蔵)、日本生命日比谷ビル(設計:村野藤吾、モザイク:矢橋六郎)、東京交通会館(モザイク:矢橋六郎)、戸田ビル(戸田建設本社 旧・新八重洲ビル モザイク:山口薫・矢橋六郎)。本号発行後、先生に伺ったところ、今井兼次作品としては次に長崎の日本26聖人記念館を採り上げられる予定とのこと。
 これらの建築物に伍して本学が採り上げられたことは、何より今井兼次という一流の建築美術家が手がけたものであることは勿論ですが、それが現に存在するということも大きいことだと考えます。古くても良きものは残して伝統と為し、八十有余年の歴史の上に立つ東洋学園大学でありたいと思います。
 なお、今回紹介されているタイル職人のエピソードは、史料室パネル及び当サイトで紹介していますが、出版物で公表されるのは初めてとなります。お孫さんにあたる方が後年、本学の英語英文科(当時)に入学され、昨年の短大同窓会総会で申し出られて施工業者が判明し、ご遺族の方に当時のお話を伺うことができました。今井兼次は妥協を許さない厳しい仕事を職人に求めましたが、また「地上に形成された建築が何で一個人の作品であり、功名であり得よう!それは多くの人の魂の共同労作であるのだ」という精神の持ち主でした。早稲田大学図書館(現、會津八一記念博物館 TOPICS8月参照)ホールの6本の柱を塗り上げた左官職人については、今井兼次の代表的作品にまつわるエピソードとして今なお語り継がれていますが、35年後にフェニックス・モザイクを作り上げた職人と今井兼次の関係にも根底において変らないヒューマニティが感じられます(今井兼次には『建築とヒューマニティ』という著書があります)。

2008/09/15

▲フェニックス・モザイクは季節、天候、時間によって表情を大きく変えます。また、日中は張り出したパラペット(胸壁)が陰を落とす時間が意外に長く、経験上、順光での撮影に適した季節、時間はごく限られているように思われます。今井兼次先生自身、壁画が真西を向いていることから午後の斜光線ではかなり色調が異なって見えるため、修正に苦心されたことを述懐されています。これまでも数々の印刷物を飾ってきたフェニックス・モザイクですが、その姿を正しく、かつ現物の迫力を紙上に再現できたのは稀有のことだと思います。撮影は喜井先生、『タイルの本』依田郁夫編集長、カメラマンがそれぞれ、違う日時に何度か撮影に来られたとのこと、そのプロ意識に頭が下がります。ありがとうございました。

2008年9月24日1964年東京オリンピック

 東洋学園とオリンピック、何の関係があるのか不審に思われる方が大方と思います。東洋女子短大第2代学長・愛知揆一は、1964年第18回オリンピック東京大会当時の文部大臣・オリンピック組織委員でした。このため史料室では60点ほどの東京オリンピック関係資料を収蔵しています。
11月の文の京ミューズウィークでこれら資料のミニ企画展を考えたのですが、諸般の事情で取り止めました。しかし、これが人を介して2016年東京オリンピック・パラリンピック招致委員会の耳に入り、24日に同委員会の企画・広報部門の方が調査のため来室された次第です。

 (愛知揆一略歴)
東北大学設立者の一人である物理学の愛知敬一を父に東京で生まれ、のち仙台に移る。旧制第二高等学校を経て1930年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。大蔵省に勤務し大蔵政務次官で退官、政界に転じて外務大臣、大蔵大臣、法務大臣、文部大臣、官房長官などを歴任した。
  本学創立者宇田尚の次女・富と結婚し、1937年から財団法人東洋女歯協議員(役名は当時)、1939年に理事、1950年に発足した東洋女子短大では「時事問題」等を担当し教壇に立つ。1956年5月、短大第2代学長に就任。1964年7月、文部大臣就任と同時に学長職を譲り、以後は名誉学長として本学の発展充実に尽力した。第二次田中角栄内閣蔵相在任中の1973年11月急逝。

2008/09/24

▲前年に竣工したばかりの日生劇場(村野藤吾の代表作の一つ)で開かれた国際オリンピック委員会式次第、当日の晩餐会メニューと名札。

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