東洋学園大学 史料室

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2018年6月7日


受贈:旧制東洋女子歯科医学専門学校指定後20回生ご遺族より故中島ますみ様遺品。


総数114点、うち2点(アルバム2冊)は各45点と64点、計109点の写真が貼付されています。そのボリュームからは故人の母校への愛着が窺われ、これまで断片的に出てきた入学から卒業までの文書資料が一人分でほぼ全て完結します。2017年8~10月に受贈した指定後11回生:故安田(旧姓:本橋)きよ江様資料群は歯科用器具、器械、材料を中心としており、両者を併せると歯科医学生の入学から開業までを資料で辿ることができるでしょう。

入学案内書(学校要覧)から始まり、制帽、学生証、1~4年次ほぼ全ての教科書、ノートが揃い、在学中の校友会誌があり、卒業時の証書2種(本科・得業/専攻科欠)があります。入学案内書に別刷りカラーのリーフレットがあり、校章入りの本校オリジナルノートが存在したこと、複数の教員の講義録が出てくるなど、新たな発見がありました。


中島資料、安田資料、両者に共通するのは豊富な同窓会資料を含むことで、母校への帰属意識、同窓生との紐帯の強さを示しています。

指定後20回生は1941(昭和16)年入学、在学中に修業年限の戦時短縮があり、1945(同20)年3月に卒業しました。本校が戦災(45年4月14日未明、城北大空襲)で焼失する直前の卒業です。その後間もない敗戦と戦後の混乱で同級生は四散し、その間、学校は移転、復旧、大学昇格問題で混乱を続け、卒業生をケアできる状態ではありませんでした。

近年に至るまで指定後20回生は結束の強さと個々の個性の強さを誇りましたが、膨大な同期会「はたちの友」資料から、同期会・同窓会の組織化と発展、そのために働いた卒業生らの熱意が今に伝わります。医師・歯科医師(医学部・歯学部)に顕著な愛校心の発露であり、文系化した現代の本学では想像できない水準にあります。

東洋学園史料室の常設展設置にあたり、強力にご支援下さった卒業生の一人が「はたちの友」の中心人物、故・伊藤(旧姓:五十嵐)とし子先生でした。また、故・岩田喜美子先生(2008年5月記事)は開室後からご支援いただき、故・萩こてふ先生の医院を訪ね三重県いなべ市に伺ったこともありました。資料からはこれらの人々の息遣いが伝わってきます。


さらに時代を遡り、中島ますみ先生のご尊父である中島弥市先生のノート、医術開業歯科試験問題集も含まれていました。

このように歯科医家累代の学生期資料が証書、衣服まで含め、まとまった形で残されていたことは大変貴重なことと思います。

中島ますみ先生が当室開設をお知りになって、長野からお越しになられてから8年が経ちました。先生は地域の同級生に声をかけられ、グループで見学にいらっしゃったことがありました。

故母堂様の大切なご遺品を寄贈下さったことに対し、御礼申し上げます。

ご健在の田中秋子先生平田葉子先生(江森茂十二教授ご遺族)ら「はたちの友」のご健康を祈念いたします。


制服の角帽。脱落していますがネームタグが残っており、劣化し易い房の状態も良好です。
着色カラーのリーフレットは初出です。壱岐坂に面した学校(付属医院と最上階は寄宿舎西寮)、手前は東寮となります。基本的なロケーションは今も変わりません。素晴らしい資料です。
本校オリジナルテキスト、小河原四郎『組織学講義』。
2016年7月に指定後22回生・中嶋多子先生から2603年版をご寄贈いただきました。これはさらに2年早い版です。皇紀2601年は1941(昭和16)年です。
中嶋先生の教科書にも手書きの図が書き込まれていました。小河原先生の講義の進め方が窺われます。
「述(のべる)」「講義」の文字が示すように、当時の教科書は講義録としての性格が強いです。
以下2冊は初出。
小澤茂『有床補綴学 理論篇』。小澤先生は本校の専任教員です。
岩橋章『歯牙組織学』。岩橋先生(2015年10月30日にまとめた記事中、29日の項)も専任教員、付属医院副院長として代表的な教員です。
ドイツ語テキスト。多くの卒業生がドイツ語の授業を強く記憶し、複数の遺族は母が授業で習ったドイツ語の歌を歌ってくれたことと述懐します。写真には含まれませんが、寄贈された『新提要独逸小文典』著者でドイツ語を長く担当した高桑純夫の授業が魅力的だったのでしょう。
写真左は戦後1946(昭和21)年の版。卒業後もドイツ語を忘れたくなったのかもしれません。
こちらも初出、表紙に東洋女子歯科医専の英文略称TDCを意匠した校章をあしらったノート。校舎地下の売店で売っていたものでしょう。
上から病理、ドイツ語×2、英語。対米英蘭開戦直前まで英語教育が継続されていました。
校友会誌。右から左へ時代が下るに連れ、書名、表紙意匠とも戦時色が強まっていきます。一番左の表紙は南方占領地のビルマ(現ミャンマー)と思われる風景写真、隠れている部分はパゴダです。
指定後20回生クラス会の機関紙創刊号、と思われます。編集は伊藤とし子先生、1951(昭和26)年刊。指定後20回生の結束はここから始まったという記念碑的資料でしょう。伊藤先生にお会いしたのは最晩年でしたが、そのエネルギッシュなこと驚くばかりでした。
卒業35周年(1980年)を記念した布張りケースの上蓋裏側。中は会報、名簿、各種通信で一杯でした。
卒業時は戦時短縮前の修業年限4年6ヶ月で21~22歳ですが(高等女学校4年卒の場合は1歳下)、戦時短縮で20~21歳(左同)になっていました。会名称の「はたち」は卒業時の年齢のほか、「昭和20年卒」の意味もあると思います。
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