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2016年7月21日


来室:旧制東洋女子歯科医学専門学校指定後22回生・中嶋多子先生並びにご家族様。


 新潟県上越市高田の中嶋歯科医院先代院長で旧制東洋女子歯科医専22回生・中嶋多子(かずこ)先生とご子息の謙介様(現院長)、和嘉様がご来室されました。

 その際、入学直後の予科時代に使用した教科書『組織学講義』をご寄贈下さり、さらに在学中の写真67点(アルバム18ページ分)をご持参下さいました。写真は一時お預かりし、後日、全て複製させていただいています。


 中嶋先生ら22回生は1943(昭和18)年4月6日に予科入学、同月26日に戦時6ヶ月短縮で指定後18回生(1939年入学)が卒業し、以後は予科(6ヶ月)・本科(3年)・専攻科(1年)の区分を廃したため、最後の予科入学生となりました。修業年限短縮は1946(昭和21)年度入学の25回生(最終)まで継続し、以後は実質4年制となっています。

 3年次に空襲で焼け出され、休校を挟みつつ栃木、湯島聖堂仮校舎を経て4年次の1946年から千葉県津田沼校舎へ、卒業時には制度変更で現行の歯科医師国家試験を課せられ、第1回試験で学校別全国2位の合格実績を挙げて有終の美を飾る波乱の学生生活を送られました。

 中嶋先生の場合、寄宿舎は桜寮から高田寮、東寮、王子寮、津田沼寮と変遷したそうです。桜寮は1936(昭和11)年、校舎隣接地に増設、高田寮は戦時中の学生増に対応して目白台のキリスト教同仁社団女子寮ブラックマー・ホームを借り受け、その高田寮が建物疎開で取り壊され、校舎内の東寮に移動、東寮も空襲で破壊され、終戦まで空襲から免れた王子寮へ、最後に落ち着いたのが津田沼寮(併設された旧制東洋高校では茜寮と命名)でした。中嶋先生の軌跡は敗戦前後のめまぐるしい本学の変転そのものです。


 高田寮の寮生長だった20回生・岩田喜美子先生(2013年没)のご記憶では上級学年のみ入寮とのことでしたが、同寮が存在した1944年4月から翌45年6月までの間、中嶋先生は2年生ですから、下級生も入寮していたことになります。

 18回生・徳永勝子先生も証言されているように、戦時学生増に対応して増設された学外寄宿舎は舎監の目が行き届かないことから、学年を問わず成績優秀者が送り出されたようです。

 ごく短期間存在した高田寮の写真は未発見でした。これまではキリスト教同仁社団よりご提供いただいたブラックマー・ホーム時代の写真しかありませんでしたが、中嶋先生のアルバムから高田寮時代の写真記録が得られました。


 貴重な資料とご証言をもたらされたことに対し、御礼申し上げます。

小河原四郎『組織学講義』教科書。「2603」は皇紀で1943(昭和18)年です。簡易印刷の講義録で戦前・戦中のものは初出です。
小河原四郎先生は当室蔵資料によれば1901(明治34)年生まれ、北海道帝国大学医学部卒業、本務校は日本医科大学です。1930(昭和5)年度入学向け「学校一覧」(入学案内書 1929年発行)より在職を確認、解剖学、組織学を担当しました。戦後は昭和医科大学(現、昭和大学)解剖学教室主任を務めたほか、聖マリアンナ医科大学同窓会聖医会ウェブサイトによれば1979(昭和54)年5月、小河原四郎名誉教授死去とあり、戦後も「東洋」を冠する大学に籍を置かれていたことになります(同大の旧称は東洋医科大学)。
学びの痕跡。
ブラックマー・ホームは社会活動を重視する米国ユニバーサリスト教会により、日本女性に教養を授け、その社会的地位の向上を図るため明治36(1903)年、東京府小石川区高田老松町50番地(現、文京区目白台3丁目)に建設され、多大な寄付をしたバーモント州の教会員L.ブラックマー(Lucean Blackmer)の名が冠せられました。
教会はブラックマー・ホーム建設以前から小日向台町で「少女の家」を運営しており、寄宿生は女性宣教師の指導の下、近隣の子どもたちを集めて日曜学校や遊戯の指導をしていました。明治41(1908)年に正式な認可を得て慈善幼稚園が発足し、同44(1911)年に美登里幼稚園と改称しています(現、同仁美登里幼稚園・保育園)。
東洋学園創立者・宇田尚の妻、宇田愛(1883~1982/東洋学園理事長1946~1975)は女子高等師範学校附属高等女学校を卒業し、日本女子大学校英文学部本科へ入学する間に「少女の家」寄宿生となりました。長じて宣教師たちを助け、幼稚園の運営に携わり、園の名称を「美登里」と定めた命名者でした。戦後は教会の理事として働いています。
このような関係から日米戦争中、閉鎖されていた同ホームを本学の寄宿舎として利用させていただいたものです。
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