東洋学園大学 史料室

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2011年10月8日

卒業生調査2 三重県いなべ市:銀座歯科(旧制東洋女子歯科医学専門学校20回生 萩こてふ様ご遺族)

萩こてふ先生は史料室開設直後の2008年5月16日、旧制東洋女子歯科医学専門学校20回生のグループ「はたちの会」で来学されました。その際、先生に中部日本放送のクルーが帯同してきたことを印象深く記憶しています。

今年5月の日本歯科医史学会例会の発表で使用した写真にたまたま萩先生が写っており、東京歯科大学社会歯科学研究室教授・同大千葉病院長の石井拓男先生が萩先生をご存知だったことで刺激を受けました。調べてみると歯科医業の傍らかまどを使った自然食作りや、ハーブ園を作って一般に公開するなど幅広い活動をされており、それをマスコミがとり上げていたのだと知りましたが、惜しくも昨2010年5月に他界されていました。

ご長女の歯科医、萩名子先生に連絡をとったところ、歯科医院その他は引き継いでいるが仕事は主に東京(本郷)とのことでした。このため訪問当日は現地スタッフの佐々木氏にご対応いただきました。同氏の本来のお住いが文京区で、萩こてふ、名子先生の活動に共鳴して、いなべに"通勤"しているそうです。

医院は滋賀県境に近い鈴鹿山地の山懐にあり、そこに「銀座」の名称は不思議ですが、もとは桑名市の桑名銀座で開業していた頃の名称そのまま、現在に至っているということでした。

前日の西村家同様、萩医院も地域の中核医療機関だったようです。西村医院は産科、萩医院は接骨がメインだったようですが、近代に至って在来医家から正規の教育機関で学んだ西洋医学の医師へと転じ、医療の行き渡らない当時にあって専門領域に留まらない総合病院的存在だったことが窺われます。築百年はゆうにあると言われる母屋が昔日を物語っているようでした。

このような医家に生まれた女性が、医師よりは負担が軽く家事との両立が可能という理由で歯科医になっていきました。旧制期の本学(東洋女歯)への進学理由として典型的なものです。

かつて病院が建っていたという場所がハーブ園になっています。時節柄コスモスが咲き乱れていました。こてふ先生はここを「てふてふハーブガーデン」と名づけ、ハーブティーで客人をもてなしていたそうですが、後継の人々は形を変えてより発展すべく現在準備中という様子ででした。

今回の二つの訪問では、各地の医家に生まれた女性が教育を受けて医療の担い手となっていく近代の医療・医学教育史の、また女性史としての典型例を見ることができました。また、地域における医業(家業)の責務と中央(東京)残留・進出との相克、広義には東京一極集中と地方との関係も垣間見たように思います。

銀座歯科の全景。道路から少し上がった石垣の上に「銀座歯科」とあるのが見えるでしょうか。手前の1階が診療室です。
桑名銀座にあった時からの看板ということです。
外見とはうってかわり、診療室内は(当然ですが)現代のユニットが使われています。
医院と平行して並ぶ母屋。かまどをはじめとする民具のほか、明治期の医家資料も残されているそうです。
かつて病院が建っていたと伝えられる場所がハーブ園になっています。コスモスが盛りでした。
「てふてふハーブガーデン」の窓から望む鈴鹿山地。山向こうは滋賀県です。日本全国から、さらに遠く外地、近隣諸国からも歯科医師を志した女性が本学に集まっていました。敗戦と占領政策によって「東洋女子歯科大学」にはなりませんでしたが、教育機関として歴史を残し、伝える責任を感じます。
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