東洋学園大学 史料室

  • ホーム
  • 月報
  • English

2017年度1月 月報

2008年度月報 2009年度月報 2010年度月報 2011年度月報 2012年度月報 2013年度月報 2014年度月報 2015年度月報 2016年度月報 2017年度月報 2018年度月報 2019年度月報 2020年度月報
  • 4・5月
  • 6月
  • 7月
  • 8月
  • 9月
  • 10月
  • 11月
  • 12月
  • 1月
  • 2月
  • 3月

2018年1月9日


往訪:東京都杉並区 旧制明華女子歯科医学専門学校1924(大正13)年卒業、故高橋キミエ様ご遺族の高橋一枝様、安藤聡彦様より資料収集、聴き取り。


1月3日、埼玉大学教育学部の安藤聡彦先生からご連絡をいただきました。先生の義理の祖母にあたる高橋キミエ様(旧姓:唐牛〔かろうじ〕1904~1979)が明華女子歯科医学専門学校1924年卒業生である由、その卒業証書などご遺品を寄贈下さることになり、本日、高橋家を訪問してお話を伺いました。

当室は近年の研究成果を踏まえ、2015年度後期より今期まで5期連続で創立90周年・前身校開校100周年記念特集展を公開しています。これにより公称創立年1926(大正15)年以前の明華女子(1917;歯科医学講習所→1918;歯科医学校→1921;歯科医学専門学校)の実相を明らかにしてきました。明華女歯卒業生のご遺族から本学を同校の後身とご認識いただけたことは、その成果ではないかと思います。

明華女歯は歯科医学校(各種学校)で3回(1919・20・22)、専門学校(正規高等教育)で2回(1923・24)、計5回卒業生を輩出し、総計124~150名弱と考えられます(*2017年第45回日本歯科医史学会で報告「明華女子歯科医学校・専門学校の卒業生」)。この方々は全員鬼籍に入っておられると見るのが自然で、接触は本人でなくご遺族となり、その機会は貴重です。過去の例は以下、


1919(大正8)年、明華女子歯科医学校第1回卒業生・秋山みよ

2017年5月26日(本記事より過去記事へリンク)


東洋女子歯科医学専門学校となって初の卒業である1926年の指定後1回生は、卒業直前まで明華の学生です。

2017年3月11日(本記事より過去記事へリンク)

2017年7月10日


卒業後の人生はさまざまです。高橋キミエは主婦として半生を送りました。夫君は日本で歯科矯正学の開拓者となった高橋新次郎(東京医科歯科大学名誉教授 1897~1973)です。

同家でさらに遺品を整理したところ、証書類以外にも貴重な資料があることが分かりました。当日はご遺品を拝見しつつ、高橋新次郎・キミエ夫妻のご次男、高橋信孝先生(2016年逝去、東京大学農学部教授・学部長など)の夫人である一枝様と安藤先生からお話を伺いました。


明華女歯時代の本学は医術開業歯科試験の受検予備校です。明治期の医術開業試験・同歯科試験は医学・歯科教育機関が整わない段階で西洋医を普及させるための検定制度で、学歴を問いません。このため受検者の水準はまちまちで合格率は極端に低く、高い基準を担保された正規の学歴を踏む医師・歯科医師養成へ、水準向上の努力は第二次世界大戦後まで継続します。

1903(明治36)年に公布された専門学校令は私立受検予備校を正規の高等教育に取り込み、基準に満たないものを淘汰します。1906(同39)年、医師法と同時に公布された歯科医師法は、その第1条第1号で文部大臣が指定する歯科医学校(事実上、歯科医学専門学校)の卒業生に免許を交付すると規定しました。同年に公立私立歯科医学校指定規則も公布され、指定校の基準を定めます。医術開業歯科試験は猶予期間を経て大正末に廃止されました(*医学と異なり歯科では検定制度が並行して残され、新たに歯科医師試験が発足。現行の歯科医師国家試験は1947年から)。

歯科教育が大きく変わる大正期、明華女歯は指定専門学校を目指して9年間努力を続け、最後に力尽き、経営陣の交代と引き換えに指定認可を得て、東洋女歯と名を改めて再出発しました。


従って高橋キミエ様は本校最後の検定受検世代です。1級下は修業年限が1年6ヶ月延長され4年半となり、1926年に指定後1回生となって卒業、全員に免許が交付されますが、指定認可のない学校の卒業生は国の試験に合格しなければ免許を与えられません。

遺品の検定試験合格証書(学説・実地)は、医術開業歯科試験に代わる歯科医師試験第1回(1924年)のものでした。

文部省歯科医師試験付属病院助手、及び歯科医師試験助手を命じる1926年の辞令も残されていました。同院は1928(昭和3)年に設立された東京高等歯科医学校(官立旧制専門学校)の母体で、同校は現在の東京医科歯科大学です。大学に改組後の初代学長となった長尾優『一筋の歯学への道普請 ―東京医科歯科大学のあゆみ』(1966年)に掲載された同病院・東京高歯医局入局者のリストにも唐牛キミエの名を確認しました。高橋新次郎先生とは職場結婚ということになります。

明華から東洋女歯初期まで、卒業生総代ら毎年1~2名の成績優秀者が同病院・東京高歯医局に入局し、その後、ほぼ例外なく母校などの臨床教員となって活躍しています。


1928(昭和3)年、東洋女子歯科医専指定後第3回総代・和久本文枝

2009年5月15日


高橋家の口承では、キミエ夫人は歯科医師への思いを終生持ち続けながら、夫君の強い希望でご子弟の育成に専念されたそうです。歯科医師への思いとは、臨床家に留まらない教育者・研究生活への思いだったのでしょう。

その能力を持ちながら発揮できなかった寂しさと、期待に応えたご子弟に希望を託す最晩年の手記(事実上の遺書)、句が残っています。


同日ご寄贈下さり、収蔵したものは以下の通りです。

明華女子歯科医学専門学校卒業証書第30号 1924年

明華女子歯科医学士得業証書第30号 同

第1回歯科医師学説試験合格承認書第80号 文部省 同

第1回歯科医師試験合格証書第466号 文部省 同

歯科医師試験助手辞令 文部省 1926年

歯科医師試験附属病院助手辞令 文部省 同

手記 1979年

俳句14句 同

印鑑


夫君・高橋新次郎先生は膨大な写真を残され、アルバムに整理されています。空調のあるところで保管されていた由、コンディションも良いようです。次回は場所を変え、アルバムその他の調査、複製(撮影)を行います。


高橋新次郎・キミエ夫妻(写真所蔵・提供 高橋家)。
香山明校長による明華女子歯科医学専門学校卒業証書(実物初出)。
証書番号は当室蔵卒業証書交付原簿と一致します。
PAGE TOP
  • 東洋学園大学
  • 東洋学園校友向けホームページ