東洋学園大学 史料室

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2011年6月7日

東洋女子歯科医学専門学校20回生(1945年卒)故・伊藤とし子様ご子息伊藤雅敏氏より、5月の二度に続き遺品をご寄贈いただきました。

1945(昭和20)年4月13~14日の空襲(3月10日に続く2回目の市街地大空襲)で被災、全焼した東洋女子歯科医学専門学校は、1946年から千葉県千葉郡津田沼町大久保の旧戦車第2連隊駐屯地を校舎としていました(2011年2月22日『習志野時代の東洋学園と陸軍戦車第2連隊 1946~1950』参照)。

進駐軍GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は、占領後直ちに教育改革に着手しました。医学教育は全て大学レベルであることを求め、医学専門学校、歯科医学専門学校は大学に昇格すべきこととされました。東洋女子歯科医専は戦災復旧と大学昇格という、二重のハードルを越えねばならなくなったことになります。

まず、荒廃した軍施設を学校として整備しなければなりません。激しいインフレと資産凍結(新円切り替えに伴う預金封鎖)で資金の途絶に悩む学校当局の苦衷に、校友会(在学生・卒業生)は娯楽に飢えていた当時の世相に着目した演劇祭を企画し、その収益を復興資金の一助にすることを企図しました。

復興演劇祭は1946年6月10日、津田沼校舎開校式と同日、会場は津田沼校舎に近い海神にあった船橋劇場。しかし11月30日、12月1日の二日開催の記録もあり、写真の観客の服装を見ると後者の方が正しいようですが、東洋紫苑会(同窓会)編纂の年表では前者になっています。

出演は卒業生、在校生のコネで高峰秀子ら東宝の俳優、芸人7名が無報酬で出演、音楽は東京帝国大学などの学生バンド月光楽団13名、東洋女歯の学生約70名は東宝から借りた衣装で演劇、踊りに出演しました。売り上げは理事・愛知揆一(当時、大蔵省終戦連絡部次長。7月に大臣官房長)の影響力をバックに松戸税務署にかけあって非課税とさせ、ユニット(電気式エンジン)など歯科医療器械、器具を購入して学校に寄贈しました。

今回ご寄贈いただいた遺品の内、写真の色紙は当時、人気絶頂の漫才コンビだった一路突破の内海突破から復興演劇祭挙行記念として贈られたものです。なお、獅子てんや・瀬戸わんやは内海突破・並木一路の弟子です。

「贈 東洋女子歯科医専一路突破後援会様 復興演劇会に古川ロッパ・高峰秀子・山根壽子・黒川彌太郎・岸井明さんたちとハリキリ出演した記念に  内海突破 昭和21年11月30日」

この日付により、復興演劇祭の開催は11月30日~12月1日説が有力になったと思います(あるいは二回あったのか)。
戦争末期、特設防護団(学校、職場単位で編成された自衛防空消火組織)の早朝訓練に対して、本学北隣のアパートに住んでいた内海突破が騒音苦情を寄せてきました。芸人は夜遅い仕事が多いため、早朝から救助梯子をかついだ集団の、大きな掛け声を伴うランニングで睡眠を破られることが苦痛だったようです。この時、対応したのが最上級生で特設防護団の幹部だった伊藤とし子先生(旧姓・五十嵐)だったということです。それが縁で後に懇意となり、戦後の復興演劇祭に、今風に言えばボランティア出演に繋がったというエピソードを伝える資料です。
内海突破が東宝に所属していたため、東宝の俳優、芸人が多く参加していますが、これには別の在学生(22回生)の親類に東宝の重役がいたこと、また東宝争議の最中でタレントのスケジュールが空いていたことも、豪華出演の理由として挙げられます。
「司会、挨拶、五十嵐とし子」(生前にお借りしてデータ化した写真。待ちきれない子どもが早くも舞台にかぶりついています)
「演壇ハ入交(いりまじり)東洋歯科医専附属病院長」。入交直重先生については2009年5月15日記事をご参照下さい。今年の冬も入交先生と東郷平八郎関係の展示を公開します。
「五十嵐さま 内海突破」(サイン入りブロマイド)。時代劇喜劇映画のスチール写真のようですが、前歯金冠が目立ちます。進駐した米軍歯科医が日本人の前歯金冠が多いのを見て仰天したといいます。
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