東洋学園大学 史料室

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2011年5月9日

ミニ企画展「東洋女子短期大学の誕生 -第二の創立者 宇田愛とブラックマー・ホーム」を公開開始。

展示解説書「はじめに」から。

「近代の開国以降、日本は西欧の文物を旺盛に採り入れてきました。日本のみならず普遍的な現代文明は欧米の文化と科学に立脚し、その応用と展開であり、大学を含む教育制度もまた、西欧に起源するものです。

西欧文明の根本にはキリスト教があり、その理解なしに真の理解はできないとも言われます。英語学・英文学系統の学部・学科を基幹とし、また源流とする日本の大学の多くは、内外のキリスト教伝道者によって建学されています。今日、キリスト教主義を建学の精神とする大学が評価を得ているのは、長い間、欧米の先進技術と新思想の窓口であった大学において、キリスト教が西欧そのものと理解されてきたのも理由の一端ではないかと思われます。

東洋女子短期大学(1950~2006)は無宗教の教育機関です。東洋女子短期大学は英語系の高等教育機関でありながらキリスト教の背景を持たず、しかし多くの教育者の営為と時代の追い風によって「英語の東洋」の評価を得るに至りました。

同短大の継承校である東洋学園大学(1992~ )は、経済規模、人口ともに縮小期にさしかかる頃に設立されました。その後、私学のみならず国公立までも、建学の理念という、言わば存在証明まで問われるようになったのは、供給過多の時代となって必然の趨勢でした。認証機関による評価から世上のイメージまで、大学を評価する基準はさまざまですが、建学時の理念が現在の教育研究活動に一貫することを求められるのは論を俟たないと思われます。

東洋学園は医学系教育機関として建学し、占領期に文系へ転換した特異な歴史を有します。転換の際、設置したのは英語科であり、同科単科の時代が長く続きました。なぜ英語だったのでしょうか。

従来、この説明責任を十分に果たしてきたとは言い難いものがあります。このため、占領期に英会話学習が流行したからなど、自由な解釈を許しました。そのような時代背景もありましたが、高等教育機関が焼け跡の闇市か何かのように、こころざしも信念もなく設立されることがあり得るでしょうか(建物は実際、戦災の焼け跡に復旧したものですが)。

「時代の要請に応じて」という、使い勝手は良いけれども漠然とした言葉は今や通用しなくなりました。東洋女子短期大学開学の経緯を解き明かすことは、今日に東洋学園大学という教育機関が世に存在することの証明になると考えています。

この小展示は新制東洋女子短期大学の開学、換言すれば文系東洋学園誕生の経緯を近代の女子高等教育史の流れの裡に再定義し、存在証明を立てる試みの一端です」

大上段に構え過ぎの気味もありますが、このような目的と意図を有します。展示スペースは限られていますので、実態は解説書の方がメインです。同書は展示コーナーで配布しています。

なお、タウン誌『空 KUU(本郷/小石川/白山 街の本)』連載、7月号「東洋学園と文京 -本郷元町・弓町・壱岐坂 2」は本展に関連した内容です。

展示解説書表紙。口絵3ページ、本文32ページです。中央写真"THE UNIVERSALIST LEADER"は1902(明治35)年刊、所蔵社団法人キリスト教同仁社団。
準備中に本学のオーナー宇田家から本写真の提供がありました。撮影は1909(明治42)年、同仁キリスト教会慈善幼稚園のクリスマス風景です。同園は翌1910年に宇田愛の命名で美登里幼稚園と改名した、現在の同仁美登里幼稚園です。目白台のキリスト教会・幼稚園と東洋学園がどのような関係にあったのか、展示と冊子で解説しています。
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