東洋学園大学 史料室

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2015年6月20日


習志野市市民プラザ大久保(千葉県習志野市)で「騎兵14連隊跡にあった“大学”」を講演。


 習志野市市民プラザ大久保の企画展「終戦70周年 軍郷から学都へ」(2015年6月19日~7月3日)における講演会で、当室担当者(永藤欣久)が本学の津田沼校舎時代(1946~50)を巡ってお話させていただきました。


 「終戦70周年 軍郷から学都へ」(東邦大学)


 上記東邦大学のウェブサイトで紹介されている山岸良二東邦大学付属東邦中学高等学校教諭・習志野市文化財審議会会長をはじめ、東邦大学名誉教授・岡田光正先生が代表理事を務める同施設指定管理者が企画した展示・講演会です。これまでも大久保地区にあった旧陸軍騎兵第1・第2旅団、及び軍と密接に関連して発展した大久保の街の歴史を紐解く展示を度々企画されています。


 習志野市市民プラザ大久保(過去の展示)


 山岸先生によれば、騎兵第1旅団第14連隊(終戦時は戦車第2連隊)駐屯地の昭和20年代利用状況は地元でも不明だったそうです。僅か6~70年前のことが不明になってしまった原因は本学にあるでしょう。

 その本学でも2006年から年史編纂を開始し、習志野時代を含む資料と口承の収集に努め、企画展を通じてその成果を公開してきました。


 2011年 東洋女子短期大学の誕生 ―第二の創立者 宇田愛とブラックマー・ホーム

 2012年 最後の旧制高校 東洋高等学校 ―教養教育への挑戦

 2013年 習志野原の東洋学園 1946~1950 ―“東洋医科歯科大学津田沼キャンパス”の理想

 公開中の日本初の歯科医衛生士学校 東洋女子歯科厚生学校もこれらの延長線上にあります。


 習志野市大久保/東邦大学と本学の取り組みが交わった結果、東邦大学の先生お二方の末席に連なり、習志野時代の旧制東洋女子歯科医学専門学校・旧制東洋高等学校について地元の方にお話する機会に恵まれました。このような場を設けて下さった岡田先生、山岸先生に感謝いたします。

 また、主催者の全てのご希望には副えませんでしたが、実物資料の貸し出しと画像データの提供による展示が期間中行われました。


 展示と講演についての報道など


 時を同じくして額田記念東邦大学資料室(東京都大田区)より、同大学創立90周年記念展(6月23日~8月19日)のご案内と出版『額田豊・晉の生涯 東邦大学のルーツをたどる』をご恵贈いただきました。

 東邦大学と本学は戦前における数少ない女子の医専(帝国女子)と歯科医専(東洋女子)であり、戦後は期せずしてともに大久保に転じて隣接し、占領期の医療改革・学制改革を経て、1950年以後は立地、教育研究分野とも別の道を歩むことになりました。本学も来年2016年は創立90周年(東洋女子に改称し、文部大臣指定認可を得た1926年を周年起点とする)、翌2017年には前身校開校100周年(1917年開校)を迎えます。


2007年に同じ構図の写真を撮り、津田沼校舎の寮に住んだ東洋女子歯科医専OGにお見せしたところ、とても懐かしがっておられました。電車は現代の最新型、ホームも成田方へ延伸されましたが、ここが一番変わっていないところかもしれません。
京成大久保駅から会場に至る間、展示・講演会の立て看板を複数見ました。力が入っています。
旧陸軍の四つの連隊が二つの大学(東邦大学、日本大学生産工学部)と中学・高校になった「軍郷から学都へ」。いつ来ても学生街の活気が溢れています。
以前来た時にはなかった騎兵旅団記念碑。司馬遼太郎『坂の上の雲』ドラマ化を機に2009年に設置されたと聞きます。よく知られるように秋山好古は日本騎兵の父と称され、日露戦争では騎兵第1旅団を基幹とする秋山支隊を指揮して活躍しました。
東洋学園創立者・宇田尚の立身出世の糸口が旅順要塞二百三高地攻略戦であることを思えば、習志野との縁もより深く感じられます。
騎兵第1旅団司令部跡の習志野市史民プラザ大久保。旅団司令部の門柱は画面右にある公園に移設、保存されています。
多目的ホールを利用した展示。
講演。
津田沼への移転、旧制専門学校から大学へ昇格する過程の旧制高校(教養課程)設置、昇格の挫折、その結果としての津田沼撤退、本郷での新制短大設置に至る経緯と背景をお話しました。
電話ボックス右の大クスノキのみが往時の面影を留める旧制東洋女子歯科医専・旧制東洋高校正門の跡。現在の日本大学生産工学部の正門は駅前商店街の突き当たり(画面よりさらに右)に動きましたが、旧軍時代から本学津田沼校舎まではクスノキの左、石垣で塞がれた位置に営門(正門)がありました。
講演会終了後、5月14日に来室された騎兵連隊史跡保存会・吉川文敏様らのご案内で14、13連隊と陸軍病院の跡を歩きました。
騎兵第13連隊跡に入った帝国女子医学薬学専門学校薬学科・同理学専門学校が現在の東邦大学薬学部・理学部です。14連隊との境界にあるこの建物は数少ない旧軍の遺構。2007年に14連隊側から塀越しに見て旧軍時代の建築と推測し、『最後の旧制高校 東洋高等学校』にその旨を記して写真を添えました。
その後、山岸先生の指導する東邦大学付属東邦高校考古学研究会の調査により、現存する旧陸軍施設であることが確認されました。
習志野陸軍病院は国立習志野病院を経て、現在は千葉県済生会習志野病院となっています。ここにも戦後間もなく看護学校が併設され、近年まで続いていたことをこの碑によって知りました。
東洋女子歯科医専の臨床実習には習志野病院入院患者が多かったと聞きます。その多くは傷痍軍人の方だったそうです。
東邦大学(旧13連隊)構内にある司馬遼太郎の碑。
「かつて存在せしものは、時代の価値観をこえて保存し、記念すべきものである。それが、文明というものである。 司馬遼太郎」
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