東洋学園大学 史料室

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文京区タウン誌『本郷/小石川/白山 街の本 空(KUU)』連載(Web増補版)

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『本郷/小石川/白山 街の本 空』 34号 2011年9月

東洋学園大学と文京 - 本郷元町・弓町・壱岐坂 -

第3回


宇田 尚 1881~1968

前回は新制短期大学の東洋女子短期大学を設立した宇田愛について触れました。今回は夫で東洋学園創立者である宇田尚(うだひさし、槃山〔ばんざん〕)について。

宇田尚は1881(明治14)年12月20日、東京府下谷区下谷竹町(現、台東区台東)で生まれました。実父の宇田廉平(れんぺい)は白里(はくり)と号した安房出身の漢学者で、江戸で学んだ後、武州六浦藩(現、横浜市金沢区の一帯)に公議人、大参事※1 として仕官、その資格で明治新政府集議院※2 に出仕、明治20年代は東京大学予備門を改組した第一高等中学校(後に第一高等学校、現在の東京大学の一部)教授兼陸軍幼年学校教授(倫理学)を勤めました。母は一橋家臣村山義倫の次女です。


宇田廉平が集議院で薩長藩閥と対立して弾圧されたため、六浦藩の飛地だった栃木県上都賀郡永野村(現、鹿沼市※3)に政治亡命し、宇田尚は少年期を永野村で育ちました。長子でなかったため高等教育を受けず、兵役中に日露戦争を迎えました。乃木第3軍野戦砲兵第2旅団野砲兵第16連隊の砲兵下士官として旅順要塞攻略戦に参加、31年式速射野砲の運用で二〇三高地奪取に功績を挙げ、大隊書記や第3軍伝騎として転戦しました。

この戦功で戦後、第3軍工兵部長榊原昇造少将の推挙により、宮内省雇員として北白川宮成久王砲兵大佐に近侍し、ご輔導の任にあたりました。

1910(明治43)年、29歳で中央大学法学科に進学し、卒業後は宮家出仕中に知遇を得た旧郡上藩主で華族実業家、青山幸宜子爵の勧めで実業界に身を投じました。青山幸宜・宇田尚のパートナーによる事業の一つである日東印刷㈱は、春日通りの真砂坂(東富坂)傍らにありました。今も印刷業の盛んな文京区ですが、日東印刷は社会科学、人文科学系の専門書、教科書の分野で大きなシェアを獲得していきます。取引先には有斐閣、厳松堂、明治書院などの老舗が多かったということです。

宇田尚は若い社員のために学費、寮費、食費不要の夜学、日東専修学院を設立し、生活費も支給しました。ここには実業家としての成功の先に、教育者だった父の衣鉢を継ぐ意志の顕れを見ることができます。


北白川宮付きの頃。左から宇田尚、朝香宮鳩彦王殿下、北白川宮成久王殿下。

前列右から二人目宇田尚、以下左に徳富蘇峰、教授岡島ハルヱ(英語担当、学生監と寮監を兼務)、教授川上みね(附属病院長)。その他教職員・助手(成績優秀の卒業生)、専攻科生(最上級生)ら。1931年、東洋女子歯科医学専門学校附属病院玄関で。

真砂町の日東印刷から程近い元町2丁目※4 の明華女子歯科医学専門学校を資金援助していた宇田尚は1926(大正15)年、文部省歯科医師試験附属病院(現、東京医科歯科大学)の委嘱により同校の再建と経営※5 を引き受け、文部大臣指定校※6 東洋女子歯科医学専門学校として再生しました。指定校認可は同年11月4日に降り、東洋学園ではこれを創立としています。以後、敗戦まで理事長兼校長として経営、教学両面の指導にあたりました。

日東印刷は東洋女子歯科医学専門学校と同じ1945年4月13~14日の第2回市街地大空襲で壊滅し、跡地には東洋学園関連会社の所有するテナントビル・マンションが名残を留めています。

宇田尚はまた、徳富蘇峰、塩谷温(しおのやおん、東京帝大教授)らと交わり、自邸を東洋思想研究所として『日本文化に及ぼせる儒教の影響』など多数の著書を著しました。その湯島天神町の邸宅も3月10日の大空襲で土蔵を残して全焼しましたが、戦後は女婿の愛知揆一(蔵相、外相など)も住んでいました。宇田尚は大学では法学を専攻しましたが、幼時から漢学(東洋思想)の手ほどきを宇田廉平から受け、長じてからはその思想活動を受け継ぎました。自らの学校に「東洋」を冠したのは、そうした背景によるものであり、女子校でありながら質実剛健、堅実な校風を確立して今日に及びます。

宇田尚は戦後、第一線を退いて学校運営を娘、女婿らに譲り、東京と栃木を往復しながら老後を養い、1968(昭和43)年まで長生しました。その前年は東洋女子短期大学が千葉県流山市に第二のキャンパスを開き、四年制大学設置に向けて大きく前進した年でした。


湯島天神町の自宅前で左から宇田尚、徳富蘇峰、宇田愛。

中央人物を挟み近衛文麿(昭和戦前期を代表する首相、左)と宇田尚(右)。
 

(続く)


1 大参事(執政とも)は近世の筆頭家老に相当。

2 明治新政府の立法府。1869(明治2)年に公議所として設置され、間もなく集議院と改称。政府諸官、学校、各藩より1名を公議人として参画させたが、反薩長の温床と目され1873年に左院に吸収する形で廃止。

3 当時は下野国安蘇郡上永野村瀧之原。廃藩置県後は栃木県都賀郡上永野村、上都賀郡永野村、上都賀郡粟野町と変遷し現在は栃木県鹿沼市上永野。六浦藩が転封前に皆川藩として同地を治めていたことによる。

4 本郷区真砂町、同区元町2丁目とも現在は文京区本郷1丁目。1919年以降、明華~東洋女子歯科医専は本郷区元町2丁目63番地にあり、現在は文京区本郷1丁目26番地3、東洋学園大学本郷キャンパス。

5 経営を引き受けるにあたり、「校風刷新」と「財政確立」を掲げた。

6 文部大臣指定の認可を受けた医育機関(旧制専門学校、大学)の卒業生は、その卒業資格が医師・歯科医師免許交付の根拠となった。実質は卒業試験が国家試験であるが、従来の検定試験を受ける必要がないため「無試験開業」と称された。

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