東洋学園大学 史料室

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2012年11月2日


資料複製:旧制東洋女子歯科医学専門学校6回生・故 西郷久子様ご遺族より1932(昭和7)年3月13日発信、旧制東洋女子歯科医学専門学校名入り封筒(教員より就職斡旋の親書在中)。


史料室を見学にこられた6回生(1931年卒)の孫にあたる方が持参されていたものです。本学は1945年4月13~14日にかけての第2回東京大空襲(市街地無差別空襲)で被災全焼し、旧制期の資料は法人文書資料を除きほぼ完全に失われました(そのため鋭意収集を行っています)。本来はありふれた存在の学校名入り封筒も未発見でした。ご厚意によりご見学の間に撮影させていただきました。

手紙の内容は卒業後、沖縄県那覇市の実家に戻っていた卒業生にあてた、久山富美子助手より当時日本領だった台湾への就職斡旋状です。久山富美子はこの前後、1935年度まで助手として勤務していたことが確認される卒業生です。優秀な卒業生は教員の勧めで医局に残り、後進の指導にあたっていました。文中「3月から試験で岡崎先生が非常に忙しいので代って連絡する」と記しています。前後数年の在職者を当たりましたが、岡崎姓の教員は不明、寮監・生徒監・英語担当である岡島ハルヱの「島」を「嶋」と記すつもりで「崎」と誤記した、というのが現時点での推測です。

書状の受け取り者である故西郷(旧姓木口)久子様のご実家は薩摩(奄美)の医家で、後に沖縄へ移住したそうです。斡旋を受けて台湾の歯科医院に勤務した後、那覇に戻られていましたが同地が戦場となるに及び本土に脱出し、戦後は医師である夫君の故地宮崎県で夫君の医院と並んで歯科医院を開業したと伺いました。お孫さんは祖母の足跡を尋ねて沖縄にも足を延ばされ、その一環としての当室訪問でした。


東京市本郷区元町2丁目53番地の時代です。1919年に本郷区田町29番地から移転後、昭和に入ってしばらくは63番地でした。壱岐坂通り開通に伴う区画整理の結果と思われますが(その際に本学も1号館のある三角形の校地に拡張します)、番地が整理されて53番地となった模様、印刷物では1930年内はまだ63番地です。
53番地の時期は短く、1933年には元町2丁目2番地に改まり、1947年3月、本郷区・小石川区併合による文京区発足後も1965年に住居表示が実施されるまで元町2-2が長く続きました(1965年1月から現行の文京区本郷1丁目26番地3号)。
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