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2011年12月20日

往訪:千葉県東金市に旧制東洋高等学校OB:鑓田幸雄先生・橋本卓典先生を訪問しました。

旧制高等学校及び旧制東洋高校については2011年6月23日の記事をご参照下さい。6月記事の栃木県宇都宮市在住OB2名に続き、今回は千葉県山武郡在住のOB、鑓田幸雄先生(元千葉県教員)、橋本卓典先生(歯科医師)を訪ねました。鑓田先生は旧制東洋高校同窓会「ならしの会」の会長です。

お二人の旧制東洋高校の経験を中心に、関連して前後の情況を伺いました。占領期学制改革進行中の上級学校への進学は経過年次毎に異なり、非常に煩雑です。さらに軍歴のあった方、軍学校廃止による進路変更者も加わります。同じ旧制成東中学出身ながら橋本先生は軍歴を持ち、中学5年で現役入学された鑓田先生との年齢差は5年もあります。新設の東洋高校には比較的軍・軍学校出身者が多く、学生の年齢構成が多様であったことは、前回の宇都宮調査で拝借した記念誌『ならしの』に奥住綱男元教授(ドイツ語担当)が紹介した小説『ならしの抄』からも窺えましたが、その実例にお会いしたことになります。まちまちな年齢構成は、かえって1回生のみの東洋高校学生生活を厚みのあるものにしたように感じられました(2回生が1年間在籍しています)。

今回の調査で得た出色の資料は鎗田先生が記録し、残されていた入学から卒業までの学事暦、週あたりの科目配当・単位・授業時数、年間授業日数、そして授業時間割及び科目担当者名です。これほど精細な記録は女子歯科医専も含め、出てきたことがありません。授業時間割は最多の3年次で6パターンありました。1947年9月入学で3年分のカリキュラムを2年半でこなす必要があったこと、専任者が少なく非常勤講師の出講に合せる必要もあったこと、また卒業前には大学入試の模試を組み込むなど、実際に即した融通無碍な時間割編成を行っていたことが分かりました。最終段階では日曜日に授業を行い、水曜日が休みになっています。

学内法人文書資料には東洋高等学校学則が残されており「学科及び課程」一覧もありますが、歯科医専同様、大きな枠組み、つまり外国語なら第一外国語、第二外国語程度の表記しかありません。これは歯科医専のカリキュラムも同様ですが、具体的な科目の内容がつかめません。余談ながら現行"大学設置基準大綱化"以降の科目名は細分化が進み、具体的であるものの、大枠が見え難いという逆の現象がおきています。

前回調査で第一外国語がドイツ語、第二外国語が英語であることを伺いましたが、第二には加えてラテン語、ギリシャ語がありました。馬渡一得校長は奥住教授に「理科乙類の教養教育を」と指示したそうですが、医学部、歯学部進学を前提に、医学用語はラテン語、ギリシャ語が起源であることを踏まえた、まさに医学部予科のリベラルアーツです。

担当教員の顔ぶれからは、監督官庁に提出する文書と実態との相違が窺えました。この点で、公文書資料を第一とする歴史編纂のあり方に危うさも感じました。

科目単位、授業時数の記録が残ったのは、卒業後に教師だったお父上の跡を継いで教員採用試験に臨んだ鑓田先生には成績などの証明書が必要で、それを控えておかれたのだそうです。これらの証明は驚いたことに、本学でなく女子美術大学に移籍していた石橋嘉一郎教授が作成しました。教学関係資料一切と校印が学内に存在しないのも、このためだったのではないかと思いました。今日では考えられませんが、廃校にあたり学籍、成績管理上の資料は石橋先生が保管するという申し合わせがあったものでしょう。

他に卒業式の正しい日付と講堂で挙行されたこと(式はやはりありました)、卒業生の実数は70名(内、女子9名)、「茜寮」命名者は橋本先生であることなど、多くのご教示をいただきました。寮名の「茜」は広大な演習地、習志野原に沈む夕陽から採ったと、橋本先生は述懐されました。

年の瀬の何かと気ぜわしい時期、快く長い時間を割いて下さった橋本、鑓田両先生にあたらめて御礼申し上げます。

教科書もお借りしました。ドイツ語テキスト E.F.Morike"Mozart auf der Reise nach Prag"(メーリケ『プラークへの旅路のモーツァルト』)の扉。
数学科の微分積分学。
帰途、東金駅まで送っていただき、同駅から九十九里鉄道の急行バスで千葉に帰りました。学校史とは関係ありませんが、同鉄道の開業は1926(大正15)年11月で、東洋女子歯科医専"創立"と同年同月です。九十九里鉄道、本学ともに千葉県にゆかりが深く、小規模ながら独立を保って創業時の名称を今日に伝えるのはご同慶の至りです。
鑓田先生は毎日この"軌道"で東金に出て、さらに乗り継いで習志野まで遠距離通学し、橋本先生は茜寮で暮らしましたが「よく飛び乗った」と追想されていました。1年の夏休み、馬渡一得校長とどなたか教員が連れ立って片貝海岸に海水浴に来て九十九里鉄道の車内でばったり会ったこと、そして校長先生らは橋本先生の実家に泊まったと鑓田先生は記憶し、橋本先生は記憶になく、他の誰かの家ではなかったかと。いずれにせよ、教員と学生が裸でぶつかり合うような、人間的交流が濃密だった当時らしいエピソードです。今も本学では少人数教育を特色として謳っています。
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