東洋学園大学 史料室

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2011年6月23日

往訪:宇都宮市に旧制東洋高等学校OBの羽石正三先生(羽石小児科医院)、田口太郎先生(田口眼科医院)を訪ねました。

6月7日記事で記したように、本学は1946年から50年まで、千葉県津田沼町(現習志野市)に「キャンパス」を構えていました。ここに設置した旧制高等学校が東洋高等学校です(現在の東洋高等学校様、東洋女子高等学校様とは無関係です)。旧制高校の位置づけは時代によって変遷しますが、最終的に旧制中学(5年制)と旧制大学間の接続教育を担う高等教育の予備教育段階として、主に語学と教養教育(リベラルアーツ)を行いました。学制改革で新制大学に組み込まれて消滅しましたが、今なお旧制高校のリベラルアーツは成功例として評価される傾向にあります。

第一高等学校(旧制一高)以下第八までのナンバースクール、以降の地名校、主に私立の七年制高校、類似の制度である大学予科などが挙げられ、東洋高等学校は最後のグループである戦後特設高校です。設立の経緯は難解ですが、既稿に要約がありますので以下に掲げます。

「旧制東洋女子歯科医学専門学校は1945年4月13~14日未明にかけての第2回市街地大空襲により、校舎・設備を焼失した。戦後は千葉県津田沼町大久保(現習志野市)の旧戦車第2連隊を校舎として教育を継続したが、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)の指令に基づく学制改革並びに医事衛生改革により、医学と歯科医学教育は全て大学によるものとなった。

この際、医学・歯科医学専門学校に対して審査(実態調査)を行った結果、財務、施設等の面から東洋女子歯科医専はB級指定(昇格不可)とされ、もう1校の女子歯科医専を含む、8校の医学系専門学校が同措置を受けた。これらを救済するため国は当該各医専に理科乙類(大学医学部への進学を前提とするコース)の旧制高等学校を設置するよう指導を行い、7校が設立された。これを戦後特設旧制高等学校という。

このような経緯で設立された東洋高等学校(共学)は1947年8月末に入学試験を実施、9月に70余名の入学生をもって津田沼校舎に開校した。翌1948年には2回生約90名が入学したが、結局は旧制高等学校も廃止となったので卒業は1回生のみ、2回生は1年次修了扱いで各自、新制大学を受験し直すことになった。進路の大部分は医学部、歯学部である。

短い存続期間であったが、寮歌は旧制高校になくてはならないものであり、兵舎を転用した寮は茜寮と称され、弊衣破帽の男子学生が『茜寮寮歌』、『茜寮別離歌』を愛唱した。一時期校舎を共有した東洋女子歯科医専とは同じ医学を志す学生同士、共同で運動会やダンスパーティーを催して戦後の混乱期に明るいエピソードを残している。

1950年3月25日、最初で最後の卒業式を挙行して廃校となった。焼け跡に校舎及び附属病院を再建し、1948年11月から本郷に復帰した東洋女子歯科医専もこの日、最後の卒業式を迎えている。一ヶ月後の5月1日、歯科医専の戦災復旧校舎を転用して新たに東洋女子短期大学が開学した。東洋女歯・東洋高等学校津田沼校舎はその後、日本大学生産工学部のキャンパスとなった」 『習志野時代の東洋学園と陸軍戦車第2連隊』

東洋高等学校に関する資料は理事会の決議録、寄付行為の改訂案などに僅かな痕跡を残す以外、不思議なほど残っていません。昭和50年代に東洋女子短期大学の幹部が東洋高等学校に関する調査を行い、卒業生(金沢大学医学部→金沢医大教授)から寄せられた手紙、同好会誌、同窓会誌、名簿を所蔵しますが、調査はそれきりで終わり、繋がりは再び絶たれました。

経験上、紹介者のない調査は断られるケースが多いので、長い間機会を待っていました。機会は今年2月7~10日に開催された、旧冨士屋制帽店野本コレクション「文京区内学校の帽章とバッチ」展で生じました。宇都宮市在住の旧制高校出身者の方が同展をご覧になり、主催者と同市在住東洋高等学校OBに連絡をとって下さり、仲立ちの労をとって下さいました。

こうして旧制卒では初めて男子の卒業生(OB)にお会いすることが叶い、これまで女子オンリーだったので実に新鮮な印象を覚えました。お二人の先生のお話、拝見させていただく資料、写真から、これまで無機質な文書資料のみだった東洋高等学校が、みるみる視覚的イメージを纏いはじめたように感じました。

事実上1回生のみではどれほどの教育ができたのか疑問でしたが、敗戦と学制改革により流動期にあった教員は想像以上に優秀で、後に受けた大学の専門教育が容易に感じられるほどレベルが高かったという述懐は印象的でした。それでありながら専門教育は一切なく、リベラルアーツに徹したカリキュラムは、当時の関係者の理想の追求の結果でした。また、津田沼校舎では、それは敗戦国の軍隊施設そのものでありますが、広大でのびのびと過ごすことができたということです。

なお従来、記録のある歯科医専に合せて1950年3月25日を卒業式としてきましたが、今回の聞き取りではお二方とも「卒業式はなかった」というご記憶でした。

短くとも濃密な3年間(実質2年半)を忘れ得ず、今も同窓会活動を継続していることに対して、仕事なので感情を交えないようにしていますが、大変感銘を受けました。同窓会活動こそは、その学校の教育の質、今風に言えば「学生満足度」のバロメータです。

この調査の結果は、年度内の追加調査が可能であればそれも含め、来年度の特集展示でまとめたいと考えています。写真などの公開はそれまで暫時お待ち下さい。

田口太郎先生の田口眼科医院。田口先生は「茜寮寮歌」の作曲者です。作詞の学生は秋田鉱山専門学校(秋田鉱専、現在の秋田大学工学資源学部)から移ってきた人で、同鉱専寮歌の"替え歌"であるということです。
羽石正三先生の羽石小児科医院。左の棟続きは東洋女子歯科医学専門学校24回生で羽石先生夫人の歯科医院、現在は娘さんご夫婦の代になっています(※看板の電話番号は伏せました)。
ご壮健そのものの羽石先生ですが、万一にも事故があってはいけないと医院を閉じることになりました。閉院手続きでご多忙のところ、現役のうちにお会いしたいと無理を言ってお聞き届け下さったものです。長い間、本当にお疲れさまでした。
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