東洋学園大学 史料室

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2018年11月23日


公益財団法人斯文会(湯島聖堂)平成30年度神農祭で記念講演を行う。


平成30年度神農祭 祭事:湯島聖堂神農廟/記念講演:斯文会館講堂

主催 公益財団法人斯文会

協賛 神農奉賛会11団体

講演 東洋学園史料室・永藤欣久「神農廟造営と東洋学園創立者・宇田尚」


神農祭は:史跡湯島聖堂の伝統行事です。祭事は同日午後1時30分より文京区長、区議会議長ら列席の下、神田神社神職によって執り行われました。

神農は中国の古典籍で医薬の始祖とされます。江戸幕府三代将軍徳川家光の発願によって作られた神農像は湯島聖堂や医学館で祀られ、維新後は新政府が接収し農商務省博物局で陳列されました。これを憂いた医師浅田宗伯が像を引き取り(故に以後、恩賜神農像と称します)、後継者がこれを引き継ぎました。しかし、第二次世界大戦によって民間による維持が困難となり、聖堂へお戻しすることになりました。

その際、聖堂を運営する斯文会の理事が当時、本学(旧制東洋女子歯科医学専門学校)の理事長・校長だった東洋学園創立者・宇田尚(1881~1968)でした。宇田尚は民生用物資が極度に欠乏した戦時中、私財を投じて神農像を安置する廟を献堂しました。

その後、本学は空襲で全施設を焼失し、終戦後約半年間に亘り聖堂で教育を継続しました。斯文会と宇田尚の緊密な関係から可能だったことです。本日の講演会場の斯文会館講堂が当時の教室で、講堂は今も往時の姿を留めています。


宇田尚の父、宇田廉平(1840~1906)は儒者・海保漁村、芳野金陵に学び、武蔵国六浦藩大参事、明治新政府集議院徴士として国事にあたりましたが、政府中央と対立して藩の旧領である栃木県上都賀郡永野村(現鹿沼市上永野)に逃れました。栃木の家は漢籍から採った槃澗書屋(はんかんしょおく)と名付けられました。現在の東洋学園栃木寮です。

その後、明治20年代に教育者として復権し、第一高等中学校(後に第一高等学校、現東京大学の一部)倫理学教授、陸軍幼年学校教授として活動しました。

栃木の家は宇田尚によって1930(昭和5)年に槃澗学寮と改められ、その維持が図られました。以後、学寮は今日まで大きな変化がなく、それ自体が史跡であり収蔵庫です。


講演(14:30~15:30)はかつての湯島聖堂と東洋学園との関りを梃に、宇田廉平・尚父子の事績を紹介しました。宇田尚の孫である愛知絢子、江澤玲子両氏も参加し、斯文会、奉賛会関係の方々と交流しました。


参考(宇田廉平・尚と槃澗書屋・学寮):2018年11月7日


1941(昭和16)年10月25日、湯島聖堂大成殿にて指定後16回生卒業記念写真。所定4年6ヶ月の修業年限はこの年まで、同年12月8日の対米英蘭開戦後は段階的に短縮されます。
この写真(卒業アルバム)は三重県熊野市の卒業生ご遺族、西村元宏先生と、タイ・バンコクの同Pongchai Tantasethi様からご提供いただいたものです。
指定後23回生・故神林節子様と、同級のご遺族和田春樹様からご提供いただいた写真。戦後1946(昭和21)年2月21日の宇田尚校長退任告別式。
1941年と比べると服装が戦時仕様で男性の靴も磨かれていません。
現在の大成殿(11月16日)。樹木が成長したほかはほぼ変わっていません。
神事終了後の神農廟。
1998年に斯文会館講堂を再訪した指定後23回生ら一行(同・鈴木彧子先生蔵)。困難な時代にこの講堂で歯科医学の基礎を学んだ人々です。
演壇上の特徴的な装飾をはじめ、基本的な構造はこちらもほぼ往時のままです。
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