東洋学園大学 史料室

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2015年6月5日


往訪:千葉県香取市佐原 旧制東洋女子歯科医学専門学校1回生・故 成家玉先生ご遺族の成家淑子様、香取淳子様。資料借用、聴き取りと1927(昭和2)年築診療所兼住宅の撮影。


 佐原は利根川の舟運とその物資集散地として栄え、また、史上初の正確な日本地図「大日本沿海輿地全図」を測量した伊能忠敬ゆかりの地です。近世佐原の経済力と文化を今に伝える町並みは文化財保護法による重要伝統的建造物群保存地区に指定され、多くの観光客を集めています。

 伊能忠敬旧宅から小野川を跨ぐ樋橋を渡った向かい、伊能忠敬記念館の前に一軒の洋館が建っています。黒ずんだ重厚な商家に囲まれたライトグレーの瀟洒な洋館は、長い年月を経て周囲に溶け込み、水郷・佐原を象徴する景観の一角を形成しながら独自の存在感を放っています。

 洋館は1926(大正15)年に本学(東洋女子歯科医専)を卒業した1回生、故・成家 玉先生(なるやたま/1904~1962)の旧成家歯科医院です。現在もご子孫が住む現役の住宅です。


 当室の2012年度特集展「最後の旧制高校 東洋高等学校」の新聞報道をご覧になり、2013年10月に成家玉先生四女の伊澤聡子様とご家族の板橋寿子様が来室されました。この時、ご母堂様の資料について確認をお願いしたところ、本年3月20日に伊澤家のお二人と長女の成家淑子様、三女の香取淳子氏がご来室され、母上の在学中の写真や開業通知がある旨コピーを添えてお伝え下さいました。

 参考:2015年3月20日

 *成家玉先生は東洋女子歯科医専の1回生(文部大臣指定認可後初の卒業生)で、指定前(明華女子歯科医学校→明華女子歯科医学専門学校)の卒業生は1919(大正8)年から存在することなど、参考情報が上記リンク先にあります。


 明華時代の校舎は関東大震災で焼失し、再建した校舎も文部大臣指定校として施設設備を拡充するため、震災後の都市計画とも絡み、1928(昭和3)年に規模を拡大して再度建て替えられました。東洋女子歯科医専時代を象徴する昭和3年校舎は1945年の空襲で焼失し、今はありません。

 お借りする資料の選定とお話を伺うため佐原に赴き、忠敬橋(ちゅうけいばし)から旧成家歯科医院を一目見て、感慨深いものがありました。昭和3年校舎は戦災で失われましたが、1回生が同時期の1927(昭和2)年に建てた診療所が残っているのです。見事な建築アーカイブズだと思いました。加えて素晴らしいロケーションです。


 成家玉先生のご尊父は尋常小学校卒業後、独学で勉強しながら各地の警察署長、郡長を歴任した叩き上げの内務官僚で、北は弘前から西は名古屋まで42ヶ所の任地を転勤しました。玉先生は1904(明治37年)に生まれ、各地を転校しながら長じて県立千葉高等女学校(現 県立千葉女子高校)に進学し、この時から親許を離れ寄宿舎生活に入りました。

 ご尊父は娘に学問をさせ、独立した経済的を持たせようとした先進的な考えの持ち主でした。

 玉先生は歯科医師を志して旧制専門学校に昇格した明華女子歯科医学専門学校を受験し、合格発表は駒込に住んでいた伯母が伝えたそうです。入学時の記録は本学に残っていませんが、卒業証書交付台帳の記録から逆算して1922(大正11)年4月入学、後に東洋女子歯科医学専門学校(指定後)1回生となる専門学校昇格後初の入学生でした。

 入学当初の修業年限は3年、1925(大正14)年3月卒業見込みでしたが、文部大臣指定認可申請のため在学中に4年、次いで4年6ヶ月に延長され、この間、関東震災と校舎再建、認可遅延の責任を巡る学校紛争があり、経営体制が変わって1926(大正15)年10月11日、明華女子から東洋女子に名称変更、同年11月4日文部大臣指定認可が降りました。翌日11月5日に指定認可後の1回生、東洋女子歯科医専の1回生として成家玉先生らは卒業、その卒業資格を以って歯科医師に登録されました。

 1928(昭和3)年1月の開業通知はがきの内容と写真により、さらに卒業後1年間、東京帝国大学医学部歯科教室に在籍して修練を積んだことが分かります(研究生と思われます)。


 1928年1月、千葉県香取郡佐原町で成家歯科医院を開業。

 現存する診療所兼住宅は娘のためご尊父が退職金で建てたもの。1927年12月31日竣工。当時の佐原に洋館を手がける大工がおらず、東京の荻窪から職人を呼んだそうです。ご一家が小石川(東京)に住まわれた時に鳩山家と行き来があり、鳩山邸(現 鳩山会館)をモチーフにしたとも伝えられています。

 男性歯科医師より丁寧で優しいと評判を得て、近所の子どもが始終、診療室に出入りするような歯科医院だったそうです。頼まれれば夜中も診療に応じ、技工も歯科医師が担った当時、4人の子育てと両立させるため、戦争が激しくなる前は女中が3人いたそうです。退職された父上がお孫さんの面倒を引き受け、人手不足の戦時中は技工も手伝い、できた義歯を長女が届けました。

 1945(昭和20)年8月15日実施予定で建物疎開の対象となり、家財を運び出したところで終戦となり、間一髪、解体を免れました(建物疎開は空襲による延焼を防ぐため家屋等を強制的に撤去する施策=強制疎開)。

 晩年は歯科技工士を頼むようになりましたが、戦中、戦後の混乱期に人手が足りず無理を重ねたためか、早くに体調を崩され1962(昭和37)年に58歳で他界されました。4人の娘さん方は概ね美術教育の分野に進まれています。

 長い年月の間に修繕を重ねた旧成家歯科医院は1999年12月31日、竣工当時の原状に復元され、往時の美しい姿を今日に留めています。


 以上のようなお話をお伺いし、幼少期から歯科の学生時代に至る写真アルバム2冊、その他をお借りして複製させていただきました。これらは来年から再来年にかけて迎える東洋学園創立90周年(1926→2016年)、前身・明華女歯開校100周年(1917→2017年)の関連展示・図録などに活用する予定です。

 貴重な資料とお話を提供して下さった成家家の方々に御礼申し上げます。


忠敬橋から小野川を見ます。右の赤い屋根の洋館が成家家住宅(旧成家歯科医院)。
同家と左の伊能忠敬旧宅を結ぶ木橋を樋橋と言い、本来は佐原村用水の大樋(水道橋)でした。樋から溢れ落ちる水の音から「じゃあじゃあ橋」と親しまれています。今は観光用に30分間隔で落水させています(香取市商工観光課HPより)。お話を伺っている間も30分置きに小野川へ落ちる静かな水音が印象的でした。
この写真は後日、資料返却に上がった7月2日の撮影。
6月5日撮影。
樋橋の向こう岸は伊能忠敬旧宅(国指定史跡)。川岸の荷揚げ用階段を当地では「だし」と言うそうです。
成家歯科医院を目にして、どこかで以前、見たことがあるような気がしてなりません。校友会誌『東洋女歯校友』にあたると、1929(昭和4)年10月の第7号口絵に「成家玉姉医院」の写真がありました。1回生の活躍を紹介するグラフで、下は名古屋で開業した村手たつ先生とあります。
*『東洋女歯校友』第7号(1929.10)所蔵:東京医科歯科大学図書館
成家家に同じ写真がありました。
1999年の修復を記念した写真が元診療室だった応接室に掲げられています。
定点撮影を試みます(7月2日)。
1階の向かって右が診療室、左が待合室になります。創建当時に植えられた棕櫚の木も成長しました。
診療室だった応接室。
竣工、開院当時の写真と対比してみました。
家具に同化していますが、元は歯科用のキャビネットです。
上の棚を開けていただくと、大型のワッテ缶やアルコールランプ、乳鉢が残されていました。
ぶれてしまいましたが、伊能忠敬より7代目にあたる画家の伊能洋先生が描いた成家歯科医院(1949年)。戦後間もなくはこんな色だったようです。
小野川と香取街道の交わる忠敬橋。画面奥に成家家住宅が見えます。佐原を訪れる機会があれば、街並み観光の中心に位置しますのでぜひご覧になって下さい。
*成家家住宅も含め、多くが現在も人の住む住宅である点にご留意の上、散策、見学をお楽しみ下さい。
香取市広報7月1日号の表紙にも(7月2日)。
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