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2014年10月9日


  • 旧制東洋女子歯科医学専門学校18回生・徳永勝子先生のご子息、徳永勝人先生より写真資料6点受贈。

 これまでの経緯はこちらをご参照下さい。2014年4月11日~

 10月2日に徳永勝人先生から当月報を読んだ旨お電話を頂戴し、6日に以下の写真をデジタル化してご寄贈下さいました。


 1)入学1ヶ月後の集合写真 1939(昭和14)年5月* (*は初出)

 2)徳永勝子先生2年次のポートレート 1940年*

 3)全校鍛錬潮干狩 千葉市出州海岸 1941年5月29日

 4)校舎・附属病院を背景に報国会結成式(壱岐坂通り) 1941年10月6日

 5)卒業時集合写真 1943年(4月)*

 6)タイ留学生ポートレート*

 7)徳永勝子先生ら日本人2名、白系ロシア人を含む満州国留学生2名のスタジオ撮影写真*


 入学から卒業まで一連の写真のうち、5点は「徳永先生のメタボリック教室」10月13日「西宮の食・美術館と東洋学園大学」で紹介されています。以下に補足して説明を加えます。


 1)制服が白い開襟に改訂されたのはこの年から。先生が写っている人数を数えて下さり、125名とのこと。文部省提出文書では135名入学となっています。この年から入学志願者の増加が顕著となり、翌1940年度から入学定員150名を超過して入学生を受け入れることになります。

 徳永勝子先生は専門学校進学と婚期を考慮して修業年限4年の旧制三次高等女学校に進学(広島高女は五年制)。広島高女は遅くまで英語の授業があったそうですが、三好高女では敵性語として授業科目から外され、本校進学後は英語とドイツ語で苦労したと伺いました。


 4)同じ写真をご寄贈下さった17回生(健在)によれば、1942年の防空演習ということでした。今回は1941年10月6日という具体的な撮影日が伴い、報国会の結成式で間違いないようです。

 同年5月10日付文部省訓令「学校報国団ノ体制確立方」により、全ての学校の校友会は報国団(会)に改められ、戦争遂行に協力する国策団体とされました。校友会雑誌『東洋女歯校友』も同年7月15日発行の学術大会特集号から東洋女歯報国会発行となり、翌年から誌名も『東洋女歯報国会誌』になりました。

 戦局の悪化した1943年6月25日付文部省「学徒戦時動員体制確立要綱」に基づき報国会を報国隊に改組、後日、隊組織図を同省に届け出ています。


 5)志願者の増加は主に総力戦、総動員体制による軍需関連産業への徴用忌避によるものですが、1942年7月25日の本科卒業時は入学当初の135名が112名に減り、この写真の専攻科卒業時(1943年4月26日)には95名になっていました(人数は証書交付原簿による)。学生が増加しても教育の質を落とさず、歯科医師としての資質に欠ける者が淘汰されたことを示します。この写真には57名が写っています。

 1943年卒の18回生は本科卒業が3ヶ月短縮(本来は1942年10月25日)、専攻科卒業も3ヶ月短縮され(本来は1943年10月25日)、計6ヶ月の戦時短縮になりました。


 地方出身のOGが口を揃えて証言されるように、徳永勝子先生も東京での知り合いが限られ、実習では患者を連れてくるのが大変だったこと、夫君を含むご親族13名が歯科医師であること、卒業後は東京で最新の知識、技術を身につけた新進の歯科医師として夜も寝ずに働いて得た収入を、戦災復興と大学昇格を同時に迫られた母校に寄付し、大学昇格を認められず寄付金も還ってこなかったことなど、4月に広島弁で伺った事柄を整理していただきました。

 徳永勝人先生ご自身は大阪大学医学部を卒業後、内臓脂肪型肥満を研究され、標準体重=身長×身長×22を提唱する肥満研究の第一人者として活動中(ブログのプロフィール)です。お忙しいところご懇切に対応して下さり、あらためて御礼申し上げます。


 以下、ブログに掲載されていない2点を含む3点の写真を紹介します。


写真3)この写真は当室常設展で掲示しています。
「乙女の遠足」にも記したことですが、徳永先生の入学された1939年度からレクリエーション活動にも戦時色が反映し、ハイキングは「鍛錬強歩行」、潮干狩りまで「鍛錬潮干狩」などと称さなければならなくなりました。大っぴらに余暇を楽しむことが憚られ、戦争遂行のための体力増進が名目になりました。
1937年に開戦した日中戦争が容易ならざる事態に陥りつつあったことを示しますが、写真からはまだ平和な市民生活が保たれていたことも感じられます。
男性教員は右から江森茂十二、入交直重、岩橋章教授。
写真6)タイ留学生ソムシー・プレマブツ(プレンプア)さん。徳永先生によればタイ王族の方、仲が良くいつも一緒にいたそうです。東洋紫苑会編『東洋女子歯科医学専門学校の六十八年』(1985年)の名簿に住所(タイ、バンコク)が記載されていることから、戦火を潜り抜け昭和末期も日本の同窓会と連絡があったことが分かります。
写真7)中列右が徳永勝子先生、左はご友人の佐藤さん、上は1学年上級で満州国から来た白系ロシア人のラビナ(またはラピナ)・ナタリアさん、下も満州国留学生の趙さん。
ラビナ(またはラピナ)・ナタリアさんは、16回生OGの回顧によれば満州医科大学から転籍し、歯科外科学の研究生として岩橋章教授(副院長)に師事、1942年に修了後は医局の助手として勤務。当室サイト「1942(昭和17)年度教育スタッフ」集合写真、後列左から四人目に写っています。1943年3月の『東洋女歯報国会誌』に学説「上顎骨々炎の一例」を投稿。戦後の消息は不明です。
仲の良さそうな、とても良い写真です。
国際色豊かな東洋女子歯科医専でしたが、戦争が全てを破壊してしまいました。
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