東洋学園大学 史料室

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2015年1月30日


一ノ渡尚道学事顧問(前学長)、沖縄県糸満市の上原裕常市長を表敬訪問。

沖縄戦で命を落とした旧制東洋女子歯科医学専門学校13回生ゆかりの「壺屋焼」を巡って。


 戦前に本学(旧制東洋女子歯科医専)の在校生が級友に友情の証として贈った沖縄の伝統工芸「壺屋焼」の壺が昨年、同級生のご遺族から故地の糸満市に寄贈されました。

 第二次世界大戦末期の沖縄戦に巻き込まれて命を落とした贈り主は玉城多恵子さん、同級生は柴田経子さん。ともに1938(昭和13)年の卒業で、卒業後は歯科医師としてそれぞれの故郷、沖縄県、愛知県で歯科医療に取り組みました。


 柴田さんのご遺族である小野寺泰子様より遺品の壺が糸満市に寄贈されたこと、また本学の関わりは、東洋学園史料室2014年10月報をご参照下さい。


 2014年3月まで本学学長を、現在は学事顧問の一ノ渡尚道(精神科医師)はかつて琉球大学医学部に勤務し、沖縄とは深い縁があります。このため今般、本学沖縄県担当職員が私費で企画した沖縄県家族会(於 豊見城市)にも私人として参加し、同県出身卒業生らとの絆を深めてきました。

 小野寺様による糸満市への遺品寄贈の話を聞いた一ノ渡は、この機会にぜひ同地を訪問したいと考え、1月30日に糸満市役所を訪問することになりました。同市役所のご理解により、上原裕常市長ら市幹部の方々との面会が叶い、亡き卒業生二人が残した一つの壺屋焼が縁となり、お会いできたことに感謝の意を伝えました。

 その上で、自身の沖縄在勤時代の思い出を巡って上原市長と語り合い、近年は糸満高校の卒業生が本学現代経営学部から大学院修士課程まで進み、今は証券会社で活躍していることなどを紹介しました。同行した沖縄担当職員もこれまでの沖縄との関わり、沖縄の文化に対する造詣を披歴し、沖縄への思いを伝えて交流に努めました。



 翌日、一ノ渡は玉城多恵子さんの実家の歯科医院、及び終焉の地と想定される同市高嶺を単身訪ねました。

 糸満市によれば、玉城さんは糸満町(当時)初の女医であった可能性が高いとのことです。結婚後は佐敷(現、南城市)に住みましたが、1945年6月24日の戦闘に巻き込まれ、この地で亡くなったそうです。実家への避難中と推測されています。

 当日、地域の方から一ノ渡が聴き取ったことによれば、艦砲射撃を避けて人々が拝所に集まったところに砲弾が落下炸裂し、多くの方が亡くなったそうです。日本軍沖縄守備隊司令官の陸軍第32軍司令官・牛島満中将、参謀長・長勇中将が摩文仁で自決した、その翌日でした(※自決日は諸説あります)。

 一ノ渡が同地で得た感慨の詳細には接していませんが、佐敷の高齢者医療にも長く携わったことから、遠い昔の他人事とは思えなかったのだと思います。


 戦前は沖縄、またその先にある日本領だった台湾からも、多くの志ある女子学生が本学に学びました。広く高等教育が普及するに連れ、本学の志願者は相対的に南関東在住の方が主流になりましたが、沖縄県からは恒常的に志願・入学者が来て下さっています。

 今も続く沖縄県との紐帯を、亡き卒業生二人の御霊とご遺族がより太くして下さいました。故人の御霊、寄贈された小野寺家、温かく迎えて下さった糸満市の皆様に感謝申し上げます。また、沖縄戦七十周年の節目にあたり、尊い命を落とされた沖縄県民、日米両軍の兵士、全ての方に哀悼の意を表します。


上原市長(中)がお持ちになる壷屋焼(古典焼)が小野寺泰子様から寄贈されました。左は一ノ渡顧問、右は本学沖縄担当職員。
地元の方によれば、現在の市立高嶺小学校校門左手の叢林が戦争当時は拝所だったそうです。拝所とは神を拝むための場です。
(写真提供:一ノ渡尚道)
この写真も一ノ渡先生の撮影。隣接する高嶺中学校の校庭ですが、なぜこれを撮影されたか、その気持ちは分かるような気がします。
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