東洋学園大学 史料室

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2014年10月14日


旧制東洋女子歯科医学専門学校14回生・故 門脇末子様ご遺族、三島眞紀子様より資料13点を受贈(同13回生・故 柴田経子様ご遺族、小野寺泰子様のご紹介により)。


 これまでの経緯は9月2日及び25日記事をご参照下さい。

 2014年9月25日


 (以下、本稿では敬称を原則さんづけとします。その方が内容にふさわしいと思えますので)

 9月2日、沖縄県糸満市秘書広報課から、同市(当時、島尻郡糸満町)出身の東洋女子歯科医専13回生の在学記録照会がありました。

 照会の対象は玉城多恵子さん。当室で分かることは生年月日と沖縄県立第一高等女学校卒業であること、入学・卒業年月日、出身地の町名まで(番地の記載なし)、戦後は各種名簿に死亡と記載されているのみですが、市ではそれで充分裏付けを得られたようでした。当室でもひめゆり学徒隊で知られる県立第一高女、沖縄戦の主戦場という連想からある程度、結末は想像できました。


 玉城さんは在学中、本郷校舎のいずれかの寮で愛知県豊田市(当時、挙母町)出身の柴田経子さんと同室だったようです。柴田さんと仲良くなった玉城さんは沖縄の名陶、壺屋焼の壺をプレゼントしました。

 柴田さんの実家は代々の医家、研究職志向のおじに代って拳母にある現在のトヨタ自工前で開業しましたが、終戦の日に強制疎開で立ち退きさせられたそうです。ご結婚は伊豆に移り住み、歯科医業は止められましたが、壺屋焼は大切に持ち続けて昨年(2013年)ご他界されました。廃業されたため同窓会(東洋紫苑会)には多く関わらず、同会が湯ヶ島の落合楼で総会を開いた年だけ参加されたと、小野寺泰子さんは記憶しています。

 また、柴田さんは小野寺さんを連れて東洋女子短期大学になった本郷校舎を訪ね、職員に歯科医専時代の先生方の消息を尋ねたということです。当時の事務職員には宇田家の親族や戦後すぐから勤めた者がおり、歯科の先生方の消息はお伝えできたのではと思います。


 小野寺さんはご母堂様の遺品整理にあたり、壺屋焼は故地に戻すべきとお考えになり、贈り主の玉城さんとは戦後連絡が途絶していたため、糸満市に寄贈することにしたそうです。意向を受けた市では、市長じきじきに贈り主の消息を調べるよう指示され、9月2日に市長秘書の大城氏から当室に照会が入りました。


 当室では情報を提供する一方、寄贈者の方の紹介をお願いし、個人情報の守秘義務に触れないよう大城氏が全て仲介の労をとって下さった結果、小野寺さんから当室に連絡が入り、以上のようなお話を伺いました。

 在学中の資料については早くに歯科医師を辞められた上、豊田市のご実家の蔵は今年解体したとのことで、すぐには協力できそうにないと恐縮され、ご母堂様以来、二代に亘っておつき合いのある一級下の14回生・故 門脇末子様のご遺族、三島眞紀子様に連絡をとって下さいました。

 追って三島さんから9月25日に第一便、10月14日の第二便で十三点の資料が届きました。一見しただけで、入学、卒業、開業の節目、また授業、実習に関して選び抜き、良い状態で保存されていることが分かりました。先年92歳で他界される前にご自身でかなりを処分されたものの、遺されたものは捨てきれなかったようです、と添えられたお手紙に記されていました。

 入学金など初年度納付金領収書(初出)、目白寮から水道橋の通学定期券(戦前初出)、1939年度専攻科在学時の臨床実習簿(初)、X線撮影写真12点(初)、卒業・得業証書は三点全て揃い(初/借用データ化は既存)、1939年度14回生卒業アルバム(初)、卒業祝電4通(初)、戦時中の歯科医師手帖(初)など、東洋女子歯科医専の教学系資料として初めて見る、貴重なものばかりでした。試験科目ごとの得点と平均点をびっしり記したメモも多数残され、勉強熱心だったことが窺われます。


 10日記事の徳永先生、そして今回の小野寺さん、そして三島さんも、本職の意図をよく汲んで下さり、ご母堂様の生涯とご家族についてお教え下さいました。資料の所有者がどのような家に生まれ、育ち、学び、働き、子孫を育てたかという付帯情報は重要です。

 門脇(旧姓:三原)末子先生は京都の東山に生まれ、高等女学校を卒業して中村鴈次郎家で家庭教師を勤めた後、医師のおじの勧めで東洋女子歯科医専に進学しました。1938年12月の校友会雑誌『東洋女歯校友 国民精神総動員特集号』には、本科修了時に在校生総代として13回生(専攻科卒業生)を送る三原末子さんの送辞が記録されています。この時点で学年首席です。

 卒業後は今熊野本瓦町で開業し、85歳まで院長を務められました。歯科医師としては勿論、小学校の校医、女医会会長、湯川秀樹博士夫人の会、歯科衛生士養成と多面に亘りご活躍なさる一方、薬学関係にお勤めのご主人を助け、三人の子女を育て上げられました。そのご夫君、子、孫も医師、歯科医師、湯川秀樹博士直系の物理学者など、医歯学、理系の分野で社会に多くの貢献をなさっておいでです。


 長くなりましたが、発端は一つの壺でした。故人の意思が働くかのように考えるのは科学的ではありませんが、この仕事をしていると、ついそういうことを想起することがあります。

 糸満市から小野寺さんにもたらされた報告によれば、玉城さんのご尊父は歯科医師の玉城孝夫、玉城さんは卒業後、同地初の女医(推定)として父を助けて働き、ご結婚後は佐敷(現、南城市)に住みましたが、1945年6月24日の戦闘に巻き込まれ、高嶺付近で亡くなったそうです。実家のある方面へ避難中と推測されています。

 壺は現在、市長室前の秘書カウンターに来歴を記した解説を付して展示されているそうです。解説文の写しをいただきましたが、壺の説明と、東洋女子歯科医専で学んだことにも触れた玉城さんの生涯を記した行き届いた内容に胸を打たれました。

 当室でも三人の卒業生とご家族のお志に沿うよう、資料と記憶を後世に伝えていきたいと思います。


1935年、本学会計課発行の学納金領収書。ありそうでなかなか出てこないものです。
中華民国浙江省の王秀筠さんにあてた国際小包の領収書。留学1年目は言葉の問題から勉強が遅れたのか、三原さんが夏休み中にノートを貸したようです。
1937年の日中開戦で中国本土(当時、中華民国)の留学生は大半が学業継続を断念し、王秀筠さんが卒業した記録もありません。
1938年12月から1939年10月まで、専攻科(最終学年)の臨床実習で撮影したX線(レントゲン)撮影の写真を収める小袋。
スキャナーにかけると画像が鮮明に残っていました。右下顎の6番、W.K.Fは本職の知識では分かりません。
1938年10月から1939年10月の昭和14年度臨床実習簿。4月に入学して最初に学ぶ予科の修業年限が半年で、以後は10月から1年サイクルになります。
内容は附属医院学生心得、臨床実習心得、患者姓名記入欄、抜歯及び手術、歯石除去、根管充填、鑲嵌(じょうがん)、金箔充填、練成充填、第一補綴、第二補綴、欠席届、出席表、当番表、臨床実習科目(月別一覧表)からなり、全19ページ。
専攻科の臨床実習がどのように進められたか一目瞭然です。
1938年10月に本科卒業の証書、1939年10月に専攻科卒業の証書、東洋歯科医学士得業証書、計3枚を交付されます。得業証書は称号を得たことの証明で、国家資格の免許は専攻科卒業証書を審査の上、内務大臣・内務省衛生局長から交付されます。
証書は比較的よく出る資料ですが、三点揃ってご寄贈いただくのは初めてです(1927年卒三点をお借りして電子データ化したものは既存)。
本郷局、昭和14年10月25日のスタンプが押された祝電4通。表はパラフィン紙でできた慶事用の封筒、本文はおおむね「卒業を祝す」です。
卒業アルバムの一コマ。附属病院玄関から壱岐坂通りを写したこの写真は1930年以降、使い回していますが、“Klinik”(独)の字体がこの時代のセンスを示しています。
歯科医師手帖。発行日の記載はありませんが国民医療法の条文が記され、戦時中のものです。京都府歯科医師会の会員証が挟まれていました。
最後に小野寺さんのご母堂、柴田経子さんも参加した1968年度東洋紫苑会総会(湯ヶ島温泉落合楼)の写真を掲げます。地方開催ゆえか少な目の人数ですが、写ってらっしゃるでしょうか。
(11月21日追記)
小野寺さんから壺の写真が届きました。
この壺は古典焼と呼ばれる技法で作られ、当時の沖縄をエキゾチックな目でとらえた舶来趣味の強いもの。高台裏に「琉球」と刻印されています。別名を黒田焼とも言い、寄留商人の注文によって作られ、主に本土市場へ出荷されたそうです。
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