東洋学園大学 史料室

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2012年2月8日

理事長室より東洋女子短期大学「学生歌」資料などを移管。

  • 東洋女子短期大学「学生歌」歌詞 作詞者古関吉雄自筆原稿(第一稿、決定稿及び署名封筒)
  • 東洋女子短期大学「学生歌」楽譜 作曲者岡本敏明自筆譜面 昭和39年1月25日
  • 東洋女子短期大学「学生歌」楽譜原版
  • 小平市立小平第七小学校校歌楽譜(1963年1月27日制定) 裏面に古関吉雄、岡本敏明の略歴
  • 宇田尚晩年など写真(4カット13点)
    短大時代から近年まで長い間使用されてきた創立者宇田尚写真の原板及び引き伸ばし写真など。

1964(昭和39)年は戦後の新制東洋女子短期大学(当時英語科)にとって、また我が国にとってもエポックメイキングな年でした。

1月23日に本郷校舎第3期工事が竣工し、記念式典が挙行されました。壱岐坂通りに面した旧1・2号館が完成し、本格的な図書館、LL教室も設けられ、ようやく「戦後」から脱しました。2号館南側東端の壁面に建築家今井兼次によるモザイク壁画「繁栄の樹」が設けられ、「フェニックス・モザイク」も完成しています。

急増する学生数を反映して本年度入学生からコース制が敷かれました。当時の名称は1類(教職課程)、2類(実務課程)とし、類分けは2年次からでした。施設設備増強を背景に、7月には1965年度入試の「募集定員」を100名増の300名と決定します。「入学定員」を300名として認可されるのは1968年度入試からですが、急伸する大学進学率への対策として私学は恒常的に1.5倍程度の超過受け入れを求めらていた時代です。実際の1965年度入学者数は541名でした。その後も志願者の増加と規模拡大は平成初期まで続き、東洋学園大学の開学(1992年)に至ります。

6月19日、学校教育法が改正され、「当面の間」の措置とされていた短期大学は69条2項により恒久的制度として位置づけられました。

7月18日に愛知揆一学長は池田隼人を首班とする第3次池田改造内閣の文部大臣・科学技術庁長官に就任して学長職から退き、名誉学長の称号が贈られます。愛知文相は10月10~24日の第18回オリンピック東京大会を、OOCオリンピック組織委員会委員として切り盛りすることになります。

日本は4月、IMF(国際通貨基金)8条国に移行するとともにOECD(経済協力開発機構)に加盟、10月1日に東海道新幹線を開業してオリンピック開催を迎え、名実ともに敗戦の痛手から立ち直り、再び主要国としての地位を固めつつありました。

このような1964年の10月25日、東洋女子短期大学では第1回学生祭が開催されることになりました、テーマは「我々の手で伝統を! この青春悔いなく生きよう」です。学生祭は第3回から「フェニックス祭」と命名されます。

「学生歌」は同祭で披露されました。作詞は国文学の丸野弥高教授を通じて古関吉雄明治大学教授(後に東洋女子短大でも非常勤講師)に依頼し、作曲は岡本敏明です。古関吉雄は仙台二高(旧制第二高等学校)で愛知揆一と同窓、明治大学で丸野弥高の同僚であり、多数の校歌作詞と「追憶」日本語歌詞作詞などの実績があり、岡本敏明は玉川学園の音楽教育や文部省図書委員として音楽の指導要領作成を長く担い、多数の校歌作曲を手がけ、また本学近くの弓町本郷教会のオルガニストでした。

今井兼次がフェニックス・モザイク「岩間がくれの菫花」を着想したモチーフであるワーズワース『Lucy詩篇』の一節、「苔むした岩角に人目をさけて咲くすみれの花」(人知れず存在する小さな女子校=東洋女子短大の暗喩)を巧みに詠み込んだ歌詞、いかにも女子大らしい優美な曲、いずれも一流の作品ですが、質実な学風にそぐわないとしていったん採用を見送られました。

にわかには信じ難い措置ですが、既に実務上のトップだった馬渡房副学長をはじめ、宇田尚の教育姿勢とその学校である東洋女子歯科医学専門学校の記憶を濃厚に残していた当時(馬渡房は宇田尚の長女)、この「校歌」が学風にそぐわないとする判断は、歴史的経緯を踏まえれば理解できます。1月の校舎竣工祝賀会に合わせ依頼したことは、岡本敏明自筆譜面の日付け「昭和39年1月25日」からも推測できますが、発表が10月まで留保され、かつ校歌でなく学生歌とされたのはこのような背景によるものと思われます。

しかし、「学生歌」は事実上の校歌として定着してゆきました。校風に合わないとされた校歌が受容されたということは、時代の変化に伴い校風が変化していったことを示します。この頃から語学教育の女子短大として自信を深めつつ(学生祭のテーマ「我々の手で伝統を!」が象徴的です)、一方で旧制歯科医専の記憶が風化し始めたとも言えます。

流山キャンパスにあった史料室の前身「東洋学園アーカイブス」(2006~07年)時代に電子化した写真で、1964年1月23日竣工式のフォルダに分類されています。この写真の撮影が10月25日でないとすると、「学生歌」の公表を学生祭当日とする記録(『学園四十年史』)と矛盾することになります。1月と10月は服装からの判断も難しく、判定はネガからするしかありません(フィルムが残っていれば、ですが)。
式典では教員、来賓らがつけているはずの胸章が見られないことから、10月撮影の可能性が高いように思います。
あるいは式典で「校歌」として披露した後、一度お蔵入りして10月にあらためて「学生歌」として公式発表した可能性も考えられますがどうでしょうか。ご記憶の方のご教示をお待ちいたします。
歌唱指導は作曲の岡本敏明先生のようです。上の写真では学生の中に分け入って指導されています。
古関吉雄先生の(仮称)第一稿です。2番に注目、別紙決定稿と内容が異なります(決定稿ではタイトルも「学生歌」に改められています)。
実際の「学生歌」2番は以下の通りです。

ひそやかに すみれ花咲く
岩かげに 泉はゆらぎ
この胸に 願いは萌える
伸びよ清く かおれ永遠に
明日の世えがく 夢うるわしく

「野の花ひらく 森かげに」が「すみれ花咲く 岩かげに」と改まり、みごとにワーズワースの詩の本歌取りとなっています。また、第一稿では2番のみ最終節がありませんが、決定稿では「明日の世えがく 夢うるわしく」が加えられています。
岡本敏明先生の自筆譜面(部分)。
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