東洋学園大学 史料室

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2012年1月17日

第78回全国大学史資料協議会東日本部会研究会に参加(獨協大学:獨協学園史調査研究資料センター)。

獨協大学、同大学キャンパス(埼玉県草加市)に関連して。

獨協大学の源流、獨逸学協会学校に本学創立者宇田尚(1881~1968)の父、宇田廉平(1840~1906)が1890(明治23)年10月から講師として出講していました。担当科目は本務校の第一高等中学校(現、東京大学の一部)、陸軍幼年学校と同じ倫理学です。本日の獨協学園史調査研究資料センターのお話で、初期の獨逸学協会学校はドイツ帝国を範とする国家建設を進めていた政府要路の後援が大だったことを知りました。明治20年代に国家主義的な教育方針を採っていた第一高等中学校で、国粋教育の中核科目である倫理学担当の宇田廉平が獨逸学協会学校に招かれた(送り込まれた)ことは、欧化政策の反動期という大きな流れの中で符合するできごとです。

下って1960年、旧制東洋女子歯科医学専門学校の復興を目指して同校同窓会(後に東洋紫苑会)が東洋女子歯科大学期成同盟を組織しました。この時に大学用地として目されたのが松原団地(草加市)の現獨協大学キャンパスです。学校法人東洋学園は文系転換後10年を経過して、ようやく基盤の整いつつある東洋女子短期大学の経営に専念しており、莫大な資金を要する歯科大復興など思いもよらず、卒業生(歯科医師)自らが大学設置に乗り出しました。この頃、歯科医師不足を背景に、国の方針で国・私立の歯学部、歯科大学の新増設ラッシュを迎えようとしていました。この機に東洋学園とは別法人で、しかし"東洋女子"の名を冠する歯科大学を設置しようとしたのです。リーダーは同窓会長の和久本文枝でした。

「東洋女子歯科大学期成同盟の思い出」 元東洋紫苑会事務 吉岡 泰

(東洋紫苑会『東洋女子歯科医学専門学校の六十八年』 1985年)

「昭和37年の中頃と覚えておりますが、東武鉄道の所有地で、埼玉県草加市の松原団地に隣接する処に、適地があるとの報が、某会員より参り、早速会長、理事者数名等で視察に参りました。東武線の松原団地駅からも近く、最近開けた地区だけに、道路事情も整備されて確かに適地と思われる場所でありました(現在の獨協大学の処)。

当地方には本会の有力会員も多数開業して居り、その中の一、二の会員が特に御骨折り下さって、当地元県会議員でもあり且又第二回生の御主人でもある大深歯科医院の院長に御願いして、地主の東武鉄道と交渉して貰える事に成功致しました。大深院長は幸い東武鉄道の有力重役とも御懇意の関係にありましたので、同盟側の意向を受けて東武鉄道側と折衝して下さったり、本会の理事会にも御出席の上、交渉の経緯や今後の見通しなど等について、いろいろと尽力して頂きました」

しかし、この土地購入は金額面で折り合いがつかず、次いで静岡県浜松市に進出先を転じて三井物産の後援も得たものの地元歯科医師会の強硬な反対に遭い、計画は遅滞しました。この間に新設の歯学部、歯科大学が相次いで開学したことから期成同盟は1965年に解散し、一般的な同窓会活動に戻りました。同窓会と称しつつ実態は歯科医師の職能団体であり、相応の資金力、人脈があったことがこの一件からも窺えます。

その獨協大学キャンパスに初めて伺いました。獨協大学は1883(明治16)年、ドイツ語及びドイツ文化の学習を通して国際人を育てるという理念のもと獨逸学協会学校として創立、1964年、当地に獨協大学を設立しています。獨逸学協会学校時代から医人を輩出してきた歴史的経緯を背景に、1973年には獨協医科大学(栃木県壬生町)を設置しています。
キャンパス内の大学初代学長天野貞祐像。旧制獨協中学出身の哲学者で京都帝国大学教授の天野貞祐は戦後、第一高等学校(←第一高等中学校)校長を経て1950年に文部大臣となります。時は学制改革の変革期で、本学には天野文相あての諸申請(控)が多数現存します。
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