文京区タウン誌『本郷/小石川/白山 街の本 空(KUU)』連載(Web増補版)
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『本郷/小石川/白山 街の本 空』 37号 2012年3月
東洋学園大学と文京 - 本郷元町・弓町・壱岐坂 -
第6回
東洋女子歯科医学専門学校の卒業生で文部省歯科医師試験附属病院(現、東京医科歯科大学)研究生を経て、母校の教員となった代表例として和久本文枝が挙げられます。本郷区春木町三丁目、今は本郷三丁目「サッカー通り」の和久本歯科医院第四代院長は和久本文枝のお孫さんです。
和久本文枝は千葉県松戸の水戸徳川家別邸(最後の水戸藩主徳川昭武家※1)主治医の医家に生まれ、1928(昭和3)年に東洋女子歯科医専の3回生総代で卒業後、文部省病院研究生になりました。同病院在籍中の1929年に「東洋女子歯科医学専門学校校歌」を作詞しています。母校に戻ると助手からスタートし、口腔外科学教授まで登りつめました。
戦後は再び東京医科歯科大学大学院で研究生活に入り、1957年に医学博士の学位を取得します。※2 もう一つの女子校、日本女子歯科医専(現、神奈川歯科大学)の向井英子と共に全国婦人歯科医会を組織、また、母校を失った同窓歯科医のため臨床研究会和泉会を主催し、さらに1960年代後半には女子歯科医専復興のため「東洋女子歯科大学」認可目前まで推進しました。※3 同窓会を東洋紫苑会と名づけ、1982年に亡くなるまで終生、同会の会長を務めています。
女子の歯科医学教育が整う以前、例えば1916年時点で女性歯科医は全国に23名しかいません。※4 中村タクエ(旧姓松尾)は歯科医師を志して1913(大正2)年に大分県耶馬渓から単身上京、歯科医の住み込み書生をしながら水道橋駅前の東京歯科医学専門学校(現、東京歯科大学)夜間別科や講義録で独学し、1919年に医術開業歯科試験を突破、1923年「順天堂病院から本郷一丁目に抜ける大通りの右側」(『三つの鍋』後述)、本郷区東竹町に中村歯科医院を開きました。
中村タクエは東洋女歯23回生・鈴木
その三河稲荷社から大横丁を越えた北側の旧弓町に、病理学者福士政一邸が百四十年の風雪に耐えて現存しています。福士邸は明治初期の文部官僚辻新次の元屋敷で、1872(明治5)年頃から明治末にかけての建築と伝わっています。
福士政一(1878~1956)は東京帝国大学医科大学卒、本務校は日本医科大学(同大学名誉教授)など、一般には彫り物、入れ墨の収集、研究で知られています。本学には1921年2月26日付「財団法人明華女子歯科医学専門学校設立認可申請書」教員分担表に「病理学総論」担当(兼任)として、早くもその名が見えます。以後三十年、東洋女子歯科医専の最後まで教壇に立ち、卒業生の間では専任教員同等の知名度があります。
女子歯科医専は歯科医学教育が大学レベルに昇格し、かつ大学が共学となるまでの先駆けの役割を果たし、戦後の女子短期大学は民主国家を実現するための重要な施策である教育の全体的な底上げを担い、また経済界に大学レベルの教育を受けた女子労働力を供給して経済発展を支えました。
街並みも学校も大きく変りましたが、街の、また学校の歴史も、つまるところ人の営みの集積です。本学には誰もが知る「偉人」はいませんが、それぞれの持ち場で社会の発展に貢献した先人の記憶を掘り起こし、記録してゆきたいと思います。それは小なりとはいえ、文京区の歴史の一角を構成してきた東洋学園の、文京の街に対する責務であり、換言すれば大学と大学アーカイブズの社会貢献と思います。
(終)
※1 徳川昭武は水戸藩主徳川斉昭の18男で15代将軍慶喜の弟。1867年、パリ万国博覧会に派遣され幕府代表として欧州諸国を歴訪、フランスに留学した。帰国後、最後の水戸藩主となっている。松戸市に松戸徳川家邸宅「戸定邸」が現存する(国指定重要文化財)。
※2 研究業績は歯周病、顎腫瘍、大理石病、歯数異常について。
※3 仮称「東洋女子歯科大学(または東洋歯科大学)」については東洋学園史料室月報2012年1月17日記事を参照。
※4 第1回の註を参照。
「最後の旧制高校、東洋高等学校 ―
戦後占領期に一瞬の光芒を放って消えた幻の旧制高校」
5月下旬~(予定)