東洋学園大学 史料室

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文京区タウン誌『本郷/小石川/白山 街の本 空(KUU)』連載(Web増補版)

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『本郷/小石川/白山 街の本 空』 32号 2011年5月

東洋学園大学と文京 - 本郷元町・弓町・壱岐坂 -

第1回

文京区には幾つかの「顔」があります。区名の由来でもある学校(文教)の街、また医学の街でもあります。本郷1丁目(旧本郷区元町2丁目)の東洋学園大学は、人文学部国際コミュニケーション学科、人間科学科と現代経営学部、大学院からなる文系教育機関ですが、医学の街という視座に拠った場合、医科や歯科の大学と医療関連企業に囲まれて浮かぶ、周囲と異質の存在のようにも見えます。

1992(平成4)年に開学した東洋学園大学は、1950(昭和25)年開学の東洋女子短期大学(英語英文科、欧米文化学科)を直接の母体としています。しかし、さらにその前身は1926(大正15)年創立の東洋女子歯科医学専門学校(旧制)という、現行学制の歯科大学にあたる女子の高等教育機関だったことはほとんど知られていません。今年は創立から八十五年を数えます。

歯科大学は近隣に東京医科歯科、東京歯科、日本歯科、日本大学歯学部(全て旧制専門学校)があり、東京大学医学部にも近く、先人が本郷元町に歯科医学校を設けたことは極めて自然な選択であり、教員採用、学生募集上でも有利な立地でした。本学がこの地に存在する理由は、このような地勢、歴史的経緯によるものです。


旧学制・医制には文部大臣指定制度がありました。指定認可を受けた医学・歯科医学専門学校では、卒業資格が医師・歯科医師免許交付の条件となって検定試験が免除されました(無試験免許)。東洋女子歯科医専は史上二校のみ存在した、女子の文部大臣指定歯科医専でした。

壱岐坂通りに面した本学1号館正門に東洋紫苑会(東洋女歯同窓会)が建てた「東洋女子歯科医学専門学校発祥の地」碑が、この歴史の証として存在しています。

但し、東洋の名称を冠した女子歯科医専発祥の地であることに間違いはありませんが、「創立」に至る経緯は複雑で、その以前に9年間の前史がありました。現在の壱岐坂通りがまだ存在しない、旧壱岐殿坂の傍らの現在地に移転したのは1919年のこと、1917(大正6)年の前身校・明華女子歯科医学講習所の設立当初は本郷田町29番地(現、西片1丁目)にありました。

明治・大正期には、歯科医学校は女子も受け入れていましたが、正規の専門学校への昇格は男子校になることを意味しました。男女別学が厳格な時代であり、これは歯科だけでなく他分野でも同様です。このため女子歯科医専が整備されるまで、女性が歯科医師になるには長期に亘る独学を要しました。

一例として、地方から上京し、開業歯科医の下で住み込みの書生をしながら男子校の夜間別科や講義録から学び、医術開業試験歯科試験を受験して合格した人がいます。明治末から大正初期まではこのような状況であり、1916年における女性の歯科医籍登録者は全国で僅か23名でした。

二校の女子歯科医学校は専門学校令に基づく高等教育機関としての認可、また文部大臣指定の認可を競い、男子校と同等の水準を志向する過程で漸次、女性歯科医師の養成数を増し、歯科医を志す女性の修学上の困難を緩和しました。

医学教育の分野(女子医専)を見ると、1924年以前は吉岡彌生が創設した現在の東京女子医科大学一校しか存在していません。女性が高等教育を受けること、ことに医学を志すことは、極めて困難かつ稀なことでした。

(続く)


今田見信「婦人歯科医の職業的地位についての統計的観察」第一表 歯科医籍登録累年表 1933年『日本之歯界臨時増刊 社会歯科医学誌第二輯』(通巻第165号)に拠る。 資料所蔵:日本歯科大学新潟生命歯学部

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