東洋学園大学 史料室

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2017年8月28日


東洋女子短期大学英文科26回生より入試・入学関係書類をご寄贈いただく。


短期大学英文科26回生の飯田和子様から入試・入学関係書類をご寄贈いただきました。26回生は1977(昭和52)年のご卒業、英文科は1973年から78年までの学科名です。それ以前は英語科、以後は英語英文科ですが、英語科時代も「英文科」を学生募集上で使用していたことがあります。

合格通知書は英文科三類と記され、三類は英文教養コース(課程)を示します。一類は英米文学コース、二類は実用英語コースでした。

1977年4月より英文教養コースの略称は三類からBコースに、翌1978年には2コースに改められるなど細かな変遷を辿りますが、膨らむ実用英語の需要に対し、文学、教養を強調するための改変と理解しています。この時期の目まぐるしい学科・コース名の変化からは、大学として伝統的な教養主義の建前と、実務能力の修得という短期大学の現実的な役割とのせめぎあいを感じます。

当時の東洋女子短期大学は、現在の東洋学園大学よりも教養色を強く打ち出しています(資料写真「本学の教育目的と姿勢」参照)。本学に限ったことでなく、全ての大学、また社会全般に流れる傾向だったと思います。


当室は入学案内書や入試要項などは保存していますが、受験票や合格通知書のような受験生の手に渡ったものは(未使用のものを除き)所蔵していませんでした。

時代的にまだそれほど古いものではありませんが、一見さりげないと思える資料ほど希少だったりします。そのような資料をピックアップして紹介しつつ、飯田様にあらためて感謝を伝えたいと思います。


1975(昭和50)年度入学案内表紙の意匠はフェニックス(不死鳥)の羽でしょう。これは現代に受け継がれています。
入学案内書より「本学の教育目的と姿勢」。
併せてご寄贈いただいた広報紙「東洋女子短期大学 学園だより」第18号(1974年)に掲載された藤井一五郎先生「本学の英語教育」、福井保先生「入学志願者に望む」、丸野弥高先生「図書館と大学生活」の寄稿も、突き詰めれば同じことを仰っているような気がします。
学校がこのようなことを言わなくなって久しくなりました。
ゴム印と手書きの合格通知書。先輩諸氏が合格発表前日、前夜に半徹夜で作業していたはず。
この年、入学定員300名に対し志願者は3,157名。名目上の倍率は10倍以上になり、その後も増え続けます。志願者増により1978年度入試から推薦制度を廃止し、一般入試(1・2期の)2回のみとしました。究極の売り手市場です。推薦の復活は18歳人口が減少に転じて2年後の1994年度入試からですが、この間に高校とのパイプが細くなってしまったように思います。
当時の厳格な大学設置基準により新規参入は少なく、進学率の上昇に対し既存の大学が国の指導によって定員を超過して受け入れ(後年の「臨時定員増」とは別の処置)、要項によればこの年は600名募集となっています。それでも5.26倍の競争、入学は705名(4.48倍)でした。
合否通知電報 発1975年2月25日 オメデトウ」トウヨウジヨシ
電文と入試要項を照合して驚いたのですが、当時は学校が合否通知電報を取り扱っていました。要項には「遠隔地からの受験生で電報による合否通知を希望するときは、予め試験当日の朝、事務室に申出て所要の手続をすること」とあります。
もう少し時代が下ると、どの大学も電報取り扱いを止め、入試当日の校門前は他大学の学生アルバイトを動員した電報・電話による合否連絡を請け負う勧誘員が蝟集し、一種の風物詩でした。大学側は業者と無関係につき、誤通知や料金トラブルには関知しないとアナウンスしたものです。
僅かな時代の相違で常識が異なると教えてくれた資料です。
こんな資料も初めて見ました。一般教育(教養課程)が全国一律に人文・社会・自然の三分野と語学、体育を修得しなければならなかった時代で、体育は必修でした。
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