東洋学園大学 史料室

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2014年6月27日


来室:東京歯科大学副学長・社会歯科学講座教授、石井拓男先生。藤平弘子様(東京歯科大学市川総合病院)の母堂、藤平未知子様所蔵の東洋女子歯科厚生学校(歯科衛生士養成校)資料をご寄贈いただく。


 昨年(2013年)12月19日、同大学市川総合病院歯科・口腔外科の歯科衛生士、藤平弘子様よりご連絡をいただきました。藤平様のご母堂様(旧姓:齋藤未知子様)が東洋女子歯科厚生学校の卒業生で、教科書、ノート、卒業証書などの資料があるということでした。藤平様は資料の扱いについて石井先生に助言を求め、当室にご連絡下さった次第です。

 石井先生には日頃より日本歯科医史学会でご指導いただいています。先生は以前も『歯界展望』誌に二回に亘って掲載された旧制東洋女子歯科医学専門学校・同東洋高等学校長、馬渡一得の手記(1951年)をご提供下さったことがあります。占領期改革の裏面を伝える貴重な資料でした。

 今般、その藤平家所蔵の東洋女子歯科厚生学校資料を石井先生がお届け下さいました。


 東洋女子歯科厚生学校は日本初の歯科衛生士養成校の一つ、というより嚆矢でした。その存在は今日、完全に忘却されています。

 戦前には口腔(歯科)衛生手などと訳されたOral (Dental) Hygienistの養成が一部で試行され、戦後は保健衛生の向上のため、国の定める基準の下に国費で養成し、資格試験合格者に免許を交付することになりました。このための法整備が図られ、歯科医師法(新法)とともに歯科衛生士法が1948(昭和23)年7月に公布、10月から施行されました。当初は歯科保健指導に重点が置かれ、予防処置、歯科医師の診療補助は後に追加されていきました。

 この動きを受けて本学は1948年2月に(各種学校)東洋女子歯科厚生学校の設置を千葉県に申請し、1949年4月に当時の津田沼校舎で開校しました。故榊原悠紀田郎先生(愛知学院大学名誉教授)によれば開校は5月9日とされ、4月は書類上、実際の開講が5月だったようです。教員は歯科医専の専任者が兼務し、カリキュラムは歯科衛生士養成所教科課程(案)に準拠しています。

 厚生省では7月1日から養成を開始することとして、7月から8月にかけて北海道東北地区(仙台)、中部北陸地区(名古屋)、近畿山陰地区(豊中)、中国四国地区(呉)、九州地区(福岡)に各一ヶ所の保健所が養成所として整備されました。東洋女子歯科厚生学校は関東地区の国費委託養成所として設置されたものですが、私学として私費入学生も受け入れました。その数、僅か7名(榊原先生によれば当初は3名だったという)。齋藤未知子さんはその一人で、国費委託養成が始まる前のフライングによる日本最初の歯科衛生士学生でした。国費生12名の受け入れは1950年1月となっていますが、これも書類上のことで、実際は他の養成所と同様に7~8月からスタートした可能性が高いと思います。

 国費による養成とは別に、私学では9月に東京歯科大学歯科衛生士学校(現 東京歯科大学歯科衛生士専門学校)、翌1950年7月に日本女子歯科医専の流れを汲む日本女子歯科厚生学校(現 湘南短期大学)も開校しました。同年6月に本学を含む私学三校は歯科衛生士法第12条(受験資格)、及び歯科衛生士学校養成所指定規則(文部・厚生省令)に基づく歯科衛生士養成機関に指定されています。

 僅かな差ですが、東洋女子歯科厚生学校を歯科衛生士養成学校の嚆矢としたのは以上の経緯によります。国費養成は1954年度で打ち切られ、歯科衛生士の業務と養成は今日のような形態に変化していきました。


 学内文書によれば、東洋女子歯科厚生学校は本体の東洋女子歯科医専のあとを追って1950年2月に文京区元町(本郷)へ移転する旨、千葉県に認可を求めています。今回いただいた資料の中には1950年2月9日の日付が入った本郷戦災復旧校舎の附属病院玄関で撮影した写真があり、このことが一応は裏付けられました。しかし、津田沼校舎の写真がなく、移転申請は形式的なもので実態は最初から本郷で開校した可能性が捨てきれません。東洋女子歯科医専は1948年11月4日(旧創立記念日)以降、校舎再建のなった本郷に復帰しており、歯科厚生学校が開校した時点の津田沼にはカリキュラム、教員の異なる教養課程の旧制高校のみが残っていました。

 本来は認可された通り津田沼で開校したと見るのが筋です。法人が新制大学設置をほぼ断念し、文系の短期大学構想を打ち出すのは1949年6月なので、同年度当初は歯科大学設置を見込み、歯科の教員数を維持していました。東洋女子歯科医専は同年度4年生(25回生)のみに減少しており、教員にかなりの余裕(余剰)が生じたはずで、その点では本郷と津田沼、2キャンパスかけ持ちも不可能ではなかったと思います。実習用の器械、器具、標本などはどうしたのかという疑問も生じますが、修業年限1年の前半は座学中心と考えられなくもありません。ともあれ日本初の歯科衛生士学校は、少なくとも公式の書類上では千葉県で発足しています。

 開校時期、学校の位置に未だ不明な点が残り、希少な当事者である藤平様ご本人にお伺いしたいところですが、健康上の理由で叶わないのが残念です。それでも初めて学生の姿を映した写真、証書、使用した器具など、本校の実在を裏付ける具体的な資料(20件)が出てきたことは、とても大きな成果です。


 1950年7月1日の第1回卒業19名。以後はありません。東洋女子歯科医専とともに東洋女子歯科厚生学校も1950年限りで閉校となりました。本学は日本女子歯科医専のように新制短期大学の教育内容を歯科衛生士養成とせず、英語教育としたことから歯科教員の雇用を止め、今後も経営を継続する意図であった歯科厚生学校も必然的に共倒れとなりました。公式の廃止認可日は1955年1月26日です。

 貴重な資料のご提供について、石井先生と藤平様に御礼申し上げます。また、今後も本学が養成した最初の歯科衛生士残り18名の消息を探し続けたいと思います。ご関係者の連絡をお待ちいたします。


学内に現存する資料は認可申請書(控)と卒業証書発行台帳(歯科医専と同じ簿冊の末尾)です。学生側の資料は初見。
写真は台帳に対応する交付番号の付された卒業証書(部分)。19枚しかない東洋女子歯科厚生学校の名称が記された非常にレアなものです。卒業後の国家試験合格証書、免許証など一連の資料もご提供いただいています(免許は借用)。
デンタルボックス。
当室では1944年以前の東洋女子歯科医専入学生が所持したデンタルボックスを大小3点収蔵していますが、いずれも中澤歯科器械製造社製でした。中澤は戦前戦中、本学と最も取引があったと思われる歯科用器具器械メーカーですが、戦後のこれは違うメーカーのようです。銘板はありません。
教科書は初期の歯科衛生士教育によく使われたという西塚忠義『歯科衛生解説』(1949年)のほか、佐藤運雄『歯の常識と衛生』(1940年、初版1930年)が残っていました。佐藤運雄先生は東洋歯科医学専門学校の創立者です。※東洋歯科医専(男子校、現 日本大学歯学部)と東洋女子歯科医専(本学)との間に人的な関係はありません。
上掲のデンタルボックス裏蓋と同様、写真の『歯の常識と衛生』見返しの署名は「東洋女子歯科医専」です。姉上が東洋女子歯科医専の卒業生なので、歯科医専に思い入れがあったか、姉上から譲られたものかもしれません。その下は大学昇格(認可)を想定した空想上の名称「東歯医科大学」。
多くの人が本学の大学設置に希望を託し、それぞれが大学名を考えていました。2013年特集展「習志野原の東洋学園」で紹介したものに「東洋女子歯科大学」、「東洋歯科大学」、「東洋習志野大学」、展示副題「東洋医科歯科大学津田沼キャンパス」はその最新バージョンでした。

榊原悠紀田郎『歯科衛生士史記』(医歯薬出版 1997年)p.49に掲載された写真と同一です。下に手書きで昭和25年2月9日の日付が入っています。前列中央に入交直重(院長)、左が小林シノブ、右は小松崎君子の各教授(東洋女子歯科医専の専任教員)。
別に同年7月1日の卒業記念と思われる写真もありました。本学における歯科時代最後の写真、その他はいずれ、東洋女子歯科厚生学校とその教育についてまとまった発表する際に公開したいと思います。
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