東洋学園大学 史料室

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2013年11月23日


日本医史学会11月例会及び公益財団法人斯文会主催・湯島聖堂第61回神農祭に出席。


 例会に先立ち湯島聖堂神農廟において第61回神農祭が挙行され、参列しました。

 神農は古代中国の伝説上の帝王である三皇の一人で、農具(鋤・鍬)を作って農耕を教え、交易の仕組みを作り、また、病気に苦しむ人々のために薬草から医薬を作った医学の祖と伝えられています。

 湯島聖堂の神農廟は1943(昭和18)年に建てられました。その際に本学(東洋学園)創立者で斯文会の理事だった宇田尚が尽力したことを、医史学の泰斗、矢数道明先生が『漢方の臨床』「日本漢方現代史余話(18~20)」、湯島聖堂「恩賜神農像」写真の変化について(1~3)(1994年)に、また斯文会でも『神農廟略志』(1969年)に記しています。東洋思想学者としての斯文会役員に加え、医学系の学校だった本学(東洋女子歯科医学専門学校)の理事長・校長として、戦局が傾いた物資不足のさなかに神農廟整備を熱心に進めたものと思われます。

 湯島聖堂の神農像は江戸幕府三代将軍徳川家光の発願により造立され、五代将軍綱吉の時に湯島聖堂へ移されました。1797(寛政9)年には医学の祖として神田の医学校に移され、祀られてきました。明治維新後、西洋医学が主流となって漢方医学が一時廃れた時期に幾多の流転を経て、戦争たけなわの1943年に故地である湯島聖堂へ遷座したという経緯があります。

 戦後、空襲から免れた神農廟では1952年に矢数道明先生ら漢方医学界の人々と斯文会湯島聖堂の尽力で第1回神農祭が開かれ、翌年の第2回には宇田尚が斯文会理事として挨拶に立っています。


 日本医史学会11月例会は神農祭にちなみ、斯文会館講堂において北里大学の小曽戸洋先生による講演「神農像の優品 ―杏雨書屋所蔵」でした。

 会場の講堂は戦災に遭った東洋女子歯科医学専門学校が終戦直後の1945年10月から、指定後21回生卒業式の1946年4月15日までの約半年間、仮校舎として使用させていただいた施設です。借用は斯文会と宇田尚との関係によるものでしょう。震災後に再建された講堂は、外見はもちろん内部も往時の面影を留めているそうです。

 このように、湯島聖堂と東洋学園にはかつて深い縁がありました。今日では本学と漢学(東洋思想学)との繋がりもなくなりましたが、名称の「東洋」にはそのような意味と背景があることを忘れてはならないでしょう。


 参考:

 日本医史学会例会

 神農祭(斯文会・湯島聖堂)


聖堂東端の高台(写真右手、屋根が見えている斯文会館の奥)に神農廟があります。
1943年に建てられた神農廟。本郷の学校、湯島の自邸とも戦災で焼失し、両地区で宇田尚の営為を伝える貴重な遺構です。
神事を執り行う神職はお向かいの神田神社(神田明神)からお招きしています。露出の関係で写っていませんが、廟の左後ろに神田明神の鳥居が立っています。
斯文会館講堂。伝統的な建築様式を踏まえながら震災後の1935年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、伊東忠太(東京帝国大学教授、当時)の設計です。2007年の文京ふるさと歴史館企画展「文京・まち再発見2 ―近代建築 街角の造形デザイン―」では、本学の「フェニックス・モザイク」とともにとりあげられました。
当時在学していた東洋女子歯科医専のOGらによれば、講堂内部も終戦当時からほとんど変わっていないそうです。
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