東洋学園大学 史料室

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2013年5月23日


往訪:東京都中央区 旧制東洋女子歯科医学専門学校19回生・秋山幸先生。


 3月25日に来室された秋山幸先生(1944年卒)のご自宅を訪問しました。一族の歴史を調査、編纂した『秋山氏の足跡 ―秋山氏発祥から今日まで―』(秋山通子編 2007年11月 私家版274ページ)を紐解きながらお話を伺い、資料を撮影し、写真をお借りさせていただきました。

 秋山幸先生の曽祖父以前は静岡県沼津で薬問屋を営み、祖父は(旧)東京大学製薬学科を卒業後、同大学を改組した帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)で医学を修め医師となり、警察医として東京水上警察署に勤めました。そのご長男は海軍軍医に、次女のみよ先生が歯科医となって分家を立てて7人のお子さんを育て上げ、その長女である幸先生が母堂の歯科医院を継いだ経緯を伺いました。

 これまでも多くの歯科医専OGから医業にかかわる家族史を伺ってきました。多くは口頭によりますが、本にまとめられた家族史(文書資料)があると、人名、親子兄弟姉妹関係、時制、場所など、諸事格段に明瞭です。その結果、大正、昭和初期には珍しかった女性歯科医がどのような家に生まれ、どのような経緯で旧制期の本学に進んで歯科医師となり、その後どのような生涯を送ったのか、大学史の編纂にも重要な参考資料となり、オーラルヒストリーも裏付けを得て確度を増すことになります。

 秋山家の場合、母娘二代に亘り本学旧制期のOG、母の秋山みよ先生は明華第1回の卒業という、東洋女子歯科医専以前(指定前)の正真正銘第1回卒業生です。資料、ご証言とも大変貴重です。


 秋山みよ先生(1901~1986)は、明華女子歯科医専が1917(大正6)年9月に明華女子歯科医学講習所として設立され、翌1918年4月に各種学校明華女子歯科医学校として認可開校した時の入学、と秋山家に伝わっています。同校初の卒業生であり、歯科医術開業試験に合格した三人のうちのお一人です。

 当時は正規の歯科医学専門学校の修業年限が3年~3年半~4年と延伸されていく時期にあたり、非正規の講習所・各種学校は1~2年制でしたが、検定試験合格までは正規校の学生よりも時間がかかるのが自然です。明華では1919年4月、専門学校昇格を視野に学則を改訂し、修業年限を1年から3年に変更しています。


 三人が合格したのは従来、1920(大正9)年4月の試験と二次資料に記録されていました。今回、『秋山氏の足跡』に掲載された歯科医術開業試験の学説、実地、二つの合格証書から、この時の試験が学説は1919年9月(合否は10月15日付)、合格者に対する実地試験が1920年5月(合否6月18日付)、歯科医籍登録(免許交付)は1921年9月1日付と分かりました。

 入学期は明華の学籍簿が未発見の現状では確証が得られず(多分、現存せず)、もう少し早かったかもしれません。この点は新たな検証課題です(高等教育の入学期が9月から4月に移行する直前だったことを勘案する必要があります)。ともあれ多少の幅はあるにしても、修業僅か1年半で学説に合格、2年で実地試験合格、ライセンス取得は驚異的です。


 そして開業は3月にご寄贈下さった東京市への「歯科医術開業届」から、震災後の1924年5月20日、場所は京橋区新湊町4丁目、患者第1号は5月13日のペンキ職人(歯槽膿漏)と分かり、本日お借りした写真から震災後の新築物件だった歯科医院の外観、幸先生のスケッチによる火鉢が置かれた待合室の様子が浮かび上がってきます。

 秋山みよ先生は卒業後、助手として学校に籍を置き、後進の指導にあたったことが同期の平(瀬古)のぶ先生の記録に残り、これは東京都公文書館が所蔵する「財団法人明華女子歯科医学専門学校設立認可申請書」(1921年) 記載の教員分担表で確認がとれています。教育者として期待されながら開業の道を選んだのは、ご父君の命によりお見合い、結婚(1922年)、分家成立という経緯だったことを、お話と『秋山氏の足跡』から教わりました。

 学校に残るはずの成績優秀者が親御さんの意向で帰郷、結婚、開業または医院継承というお話は、例えば2011年10月7日西村マホ子先生(16回生)も同様でした。親、ことに家父長として父の意向は絶対でした。


 多くのことを得た訪問でした。長時間快くご対応下さった秋山幸先生、3月に同行して下さり、本日も介添えしていただいた姪の小栗千絵子様に御礼申し上げます。


『秋山氏の足跡 ―秋山氏発祥から今日まで―』
近世は沼津で薬種商を営んでいた点、医人を輩出した家らしく思えます。それ以前、戦国期の武田家家臣秋山氏からさらに遡って甲斐源氏、清和源氏まで、口伝を裏付ける綿密な調査、考証が行われていますが、安易に誰それの子孫とは推断していません。あるのは資料に基づく事実の積み重ねです。
調査の旅(水平移動)と時間を辿る旅(垂直移動)が交錯しながら事実を積み上げ、立証していく過程は筆者の仕事と重なるところが多く、感動を覚えました。
秋山みよ先生が義母のために作製したゴム床義歯、技工所に委託した金属床義歯、未使用のゴム床義歯(上顎)見本は、米S.S.White社製モデリングコンポジションの箱に入っていました。箱だけでも貴重です。
秋山幸先生。1923(大正12)年のお生まれ、満90歳の知的で背筋の通った女医さんです。家の歴史、ご両親をはじめご一族のこと、ご自身の歩み、明華創立者香山明先生の面影、さらには銀座近くの歯科医院ならではのお話として、深夜の急患(酔客)やヤクザの患者のことなども楽しげに語って下さいました。かくありたいものです。
秋山幸先生の母堂、秋山みよ先生ら明華女子歯科医学校最初の卒業生で歯科医術開業試験に合格した3人(『東洋女子歯科医学専門学校の六十八年』1985年)。
秋山幸先生がスケッチした木造時代の医院2階待合室。左の額縁状のものは、正面奥の刷りガラスの文様を拡大したものです。
秋山歯科医院は大川(隅田川)の右岸(写真左手)、築地に隣接する中央区湊にありました。現在は対岸の佃にお住まいがあります。ここは佃の渡しがあったところです。
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