東洋学園大学 史料室

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文京区タウン誌『本郷/小石川/白山 街の本 空(KUU)』連載(Web増補版)

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『本郷/小石川/白山 街の本 空』 35号 2011年11月

東洋学園大学と文京 - 本郷元町・弓町・壱岐坂 -

第4回

今日、歯科大学・歯学部には「旧6」と呼ばれる学校群が存在します。旧制期から続く6校の伝統校、という意味です。※1 千代田区富士見にある日本歯科大学は現存二番目の古い歯科医育機関です。日歯が1909(明治42)年に旧制専門学校(男子校)として認可される際、従前の各種学校に在籍していた女子学生を対象に、同校附属病院長の大久保潜龍が女子の歯科医育機関を創設しました。この学校は本学同様、占領期の学制改革で歯科医育を中断したので伝統校には含まれませんが、後に神奈川歯科大学として復興します。

この最初の女子校が東京女子歯科医学校※2と称していた1917(大正6)年、同校と東京歯科医学専門学校(現、東京歯科大学)の解剖実習講師で、日本医学専門学校(現、日本医科大学)では解剖学助教授だった香山明が分離独立して設立した第二の女子校が明華女子歯科医学講習所でした。これが東洋学園大学の遠いルーツです。


専門学校昇格祝賀会
壱岐殿坂に面して弓町側から撮影、現1号館前(左手は大横丁)

同校は白山通り沿いの本郷区田町29番地(現、西片1丁目)に校舎を設け、16名の学生で始まりました。校舎図面を見ると民家そのものです。翌年春に各種学校の認可を得て明華女子歯科医学校に、さらに1年後の1919年、本郷区元町2丁目63番地の私立習性尋常高等小学校跡に移転しました。元町2丁目63番地は現在の文京区本郷1丁目26-3で、東洋学園大学本郷キャンパス1号館の位置です。

また翌年には修業年限を3年に延長して外国人入学規定を設け、明くる1921年暮れには財団法人化して専門学校に昇格、年明け早々から明華女子歯科医学専門学校に改まりました。旧制専門学校とは旧制大学と並行する高等教育機関です。専門学校認可を得た際は、分離元の東京女子歯科医学校より半年以上先行しました。


新聞社が撮影した国家試験合格者、左から田添(旧姓村松)たい、秋山みよ、平(旧姓瀬古)のぶ。
この3名が合格した1年後に専門学校認可申請がなされます。申請書の「沿革」には「修業年限1ヵ年当時迄ノ生徒ニシテ卒業セル者35名、内国家試験ニ及第シ歯科医師トナリタル者21名、学説試験ノミニ及第セルモノ6名ヲ出セリ」と、以後も着実に実績を積み増していることが窺われます。

このように明華女子歯科医専は急速に成長しましたが、その目指すところは文部大臣指定でした。指定認可の有無が医学系学校の将来を左右したからです。指定校では卒業資格が医師・歯科医師免許交付の根拠となり、卒業生は国家試験を免除される制度だったからです。※3

東京女子歯科医専と明華女子歯科医専は張り合うように学校整備を急ぎましたが、この急成長があだとなります。1923年9月1日の関東大震災で施設・設備を全焼するという不運もありましたが、基本的に明華女歯(香山明)には医学教育機関相応の財政基盤がありませんでした。1926年には両校とも指定問題で行き詰まることになります。

しかし高等教育への女子進学率が1%に満たない当時にあって、医人を目指した女子学生は極めて優秀でした。1920年に1期生16名の内の3名が合格率1割程度の国家試験を突破して新聞に報道されたことを、当時の学生瀬古のぶが述懐しています。

これらの学生は学校に残って後進の指導にあたり、さらに文部省歯科医師試験附属病院(現、東京医科歯科大学)で研鑽を積んで指導者になってゆくのです。


後に東洋女子歯科医専に変わってから制服も一新されますが、これは明華時代の制服です。

冬服「品質サージ、色合紺、形式ジャケツプレンスカート、紺サージ製鍔帽」
(学則第46条)
この写真は夏服だと思っていましたが、学則をよく読むと夏帽は「白パナマ黒リボン鍔帽」なので、これは冬服のジャケットを省略した状態です。国家試験合格者3名の写真で左の2名が夏の制服のようです。

(続く)


1 官立旧制医科大学から続く国立大学医学部も旧6と称される。

2 東京女子歯科医学専門学校を経て昭和期の名称「日本女子歯科医学専門学校」が代表的。

3 旧法「医師法」「歯科医師法」に準拠した現行とは異なる制度。現国試は戦後導入され、周知のように医学部、歯学部卒業生の全てが受験しなければならない。

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